【大島淳(中)】わずか3日で成功させたバックフリップ 21歳で切り開いたプロの道

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第45弾では、大島淳コーチ(59)を連載中です。アイスショーの世界を切り開いた日本プロスケーターの第一人者。現在はコーチを務め、長男の光翔(22)ら約30人の選手たちを指導しています。

全3回連載の中編では、渡米した19歳のころの記憶やヨーロッパの「ホリデイ・オン・アイス」で主役を務めた20代前半までの日々を回想。プロスケーターへ転向した背景には、五輪金メダリストからの誘いがありました。1つ1つの決断が、人生の支えとなっています。(敬称略)

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◆大島淳(おおしま・あつし)1965年10月19日生まれ、愛知県小牧市出身。小学6年時の11歳で競技を始め、伊藤みどり、樋口美穂子らとともに山田満知子コーチに師事。中学1年時の78年全日本ジュニア選手権3位。79年世界ジュニア選手権出場。同2年時の同全日本選手権で初出場ながら8位。同3年時から2年連続でNHK杯出場。中京高校(現中京大中京)1年時の82年全国高校選手権優勝。腰椎骨折の大ケガを経て、中京大1年時の84年全日本選手権4位、85年冬季ユニバーシアード(イタリア)5位。同4月に渡米。87年からアイスショー「ホリデイ・オン・アイス」、90年から「ディズニー・オン・アイス」でともにプリンシパルを務め、94年から「プリンスアイスワールド」で活躍。2011年8月の愛知・岡崎公演で引退。04年から14年まで東京・高田馬場のシチズンプラザ、14年から埼玉アイスアリーナでインストラクター。長男の光翔、長女の杏里紗、次男の佑翼はいずれもフィギュアスケートをしている。

「光翔には絶対」バックフリップに込めた思い

「スーパーマリオブラザーズ」の曲に乗せて演技を披露する大島光翔(2023年9月撮影)

「スーパーマリオブラザーズ」の曲に乗せて演技を披露する大島光翔(2023年9月撮影)

「あれだけは絶対にやらせたいと思っていました」

淳はほほ笑みながら、2022年7月のプリンスアイスワールド東京公演を回想し始めた。

長年にわたってメインキャストを務めてきた舞台。そこに長男の光翔がゲストスケーターとして初出演することになった。

そこで託したのが、バックフリップだった。

後方へ勢いよく滑り、そのまま後ろ向きで宙返り。自身の代名詞だった。

日ごろは自由な指導を重んじているが、この技には強い思いがあった。

「あれは勇気がないとやれない。だから光翔には絶対、と思っていました」

当時の日本の現役選手では誰も決めたことがない大技だったが、光翔も「絶対に譲りたくない」と決死の覚悟で練習を重ね、決めてみせた。

恐怖心に打ち勝った長男の姿に、若き日の自分を重ね合わせる。

「私も若い時は、できないことでもできると思ってやろうとしていました。ハッタリだろうと何だろうと、やってみることは大切だと思います。それが支えになることもあるので」

バックフリップは、人生の分岐点となった。

話は1985年の春にさかのぼる。

父・淳コーチがかつてアイスショーで使用した「デスペラード」に乗せて演技を披露する大島光翔(2025年1月撮影)

父・淳コーチがかつてアイスショーで使用した「デスペラード」に乗せて演技を披露する大島光翔(2025年1月撮影)

19歳の春、米ロサンゼルスへ

19歳だった淳は腰痛骨折の大ケガから再起したものの、行く末を案じていた。

前年の全日本選手権で4位となり、年始の冬季ユニバーシアードは5位。復活を遂げたが、腰の負担から「これ以上は無理」と限界を悟っていた。

そこで声をかけてくれたのが、かねて面識があったジェームズ・グローガン。世界選手権で1951年から4年連続で銀メダルをつかんだ米国の英雄から、思わぬ助言を授けられた。

ジェームズ・グローガン(左)と肩を組む大島淳(本人提供)

ジェームズ・グローガン(左)と肩を組む大島淳(本人提供)

「アメリカでアイスダンスをやってみないか?」

米国にいる娘とカップルを組むことを提案されたのだ。

スケートの世界へ導いてくれた父も、強く背中を押してくれた。迷いはあったが「スケートは好き」という思いは変わらなかった。

「1度目の奇跡は再起不能のケガからの復活。2度目の奇跡はジミー先生(グローガンの愛称)に声をかけられたことですね」

強い縁も感じ、すぐに渡米すると決めた。

新たな拠点となったのは、ロサンゼルス東部のレイク・アローヘッド。標高1500メートルほどの自然豊かな町にある「アイス・キャッスル」だった。

のちに浅田真央や町田樹らも拠点とした地で、スケート人生の第2章が始まった。

シングルと並行しながらアイスダンスに打ち込み、3年後の88年カルガリー五輪を目指した。

ただ、道のりは険しかった。

淳は苦笑いで振り返る。

「ついつい、自分が前に出ちゃうんですよね。女性を前に行かせないといけないところでも、私が出て行ってしまう。2人でやっているスポーツなのに、足並みをそろえることができなくて。全日本にも出場したんですが、ちょっと合わないと感じていました」

パートナーが体調不良となったことも重なり、アイスダンスを続けることが困難となった。

渡米から2年が経ち、道を迷い始めた。

その矢先だった。

1987年夏。グローガン主催の合宿を手伝っていると、ここでもまた手を差し伸べてくれる人がいた。

「3度目の奇跡ですね」

声をかけてくれたのは、80年レークプラシッド五輪男子金メダリストのロビン・カズンズだった。

ロビン・カズンズ(左)から特訓を受ける大島淳(本人提供)

ロビン・カズンズ(左)から特訓を受ける大島淳(本人提供)

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岐阜県不破郡垂井町出身。2022年4月入社。同年夏の高校野球取材では西東京を担当。同年10月からスポーツ部(野球以外の担当)所属。
中学時代は軟式野球部で“ショート”を守ったが、高校では演劇部という異色の経歴。大学時代に結成したカーリングチームでは“セカンド”を務めるも、ドローショットに難がある。