0円Jリーガーとして奮闘するYS横浜のFW安彦(右)
0円Jリーガーとして奮闘するYS横浜のFW安彦(右)

サッカー選手は、引退後の第2の人生を示す「セカンドキャリア」という言葉に惑わされ過ぎている。ここ最近、セカンドキャリアに対して多くの人が敏感に反応するようになってきた。中にはセカンドキャリアという言葉が良くないと言い始め、デュアルキャリアやパラレルキャリアなどという人も増えている。

僕の中では名前を変えたところで何の意味もなく、セカンドキャリア自体を定義する前に、自分の人生を定義しなければ、ただの言葉遊びに過ぎないと思ってしまう。これはサッカー選手に限った話ではないが、多くのアスリートがセカンドキャリアをうたう人や企業に惑わされている。

よく考えてみたい。セカンドキャリアをうたっているその人のキャリアはどれだけすごいのか。それは本当に自分が目指したいキャリアなのか。そもそも、サッカー選手を終えるとはどういうことで、終えたあとの自分は就職したいのか、起業したいのか、フリーランスなのか、もしくは、こういった固定概念にとらわれず、自分の生き方を表現できる人になりたいのか。これらが分からぬまま、セカンドキャリアをうたう人たちの話を聞いていることに疑問が浮かぶ。

僕は現在、現役Jリーガーたちと一緒に「今これがあったら楽しい」「使ってみたい」「食べてみたい」「着てみたい」など、好奇心をベースとして利益など考えず、まずはやってみることにしている。それはセカンドキャリアのためなどではなく、自分が何にワクワクするのかを確かめるためだ。

やみくもに動いても、本当にやりたいことなのかどうか分からない。それが収益につながるかも分からない。ましてや、それがセカンドキャリアとして成立するかも分からない。そんな言葉がその1歩を、ちゅうちょさせる。セカンドキャリアをうたう人たちは善意ではなくビジネスで考えている。ということは、収益にならなければ放置されることもあるし、見放されることだってある。

今、現役アスリートに大事なことは“研究者”になることだと思う。自分に例えるならば、僕はサッカー選手として研究者にはなれない。僕がなれるのは40歳でJリーガーになったという人生の研究者だ。その上で、この研究結果を世の中にどう残せるかを考え、動くことで、その成果がまた新たな研究者を生むことになると考えている。これはアスリートのみならず、社会人ならば皆同じだと思う。

あなたは何の研究者ですか? その問いへの答えを見つけることが重要だ。セカンドキャリアのことなどそもそも考える必要などないのである。僕らアスリートが大事にすべきは、日が暮れるまでボールを蹴り続けていた、あの頃の気持ちだ。あの時は皆、無意識のうちに研究者だったんだ。

周りの大人に惑わされるな。選手同士で補完し合えることがあり、趣味と同じようにお金をかけ、時間をかけ没頭すればいい。サッカー選手は、サッカー選手としてのピークが必ずある。それは本来、人間性としてのピークとは同じではないはずなのだが、気がつけばサッカー選手のピークが過ぎると人間性のピークも同じようにパワーダウンしていく。

そうならないように、今はもっと自分自身が何の研究者なのかを明確にする。そしてそれを言語化していけば、次のキャリアの輪郭がくっきりと見えてくるはずだ。

0円Jリーガーとして奮闘するYS横浜のFW安彦(右端)
0円Jリーガーとして奮闘するYS横浜のFW安彦(右端)

まだ見ぬ未来に不安を抱くより、今ある時間をしっかり使い、自分の好奇心の矛先を探す方が大事だと思う。その好奇心を全力で表現していくことで、その人にしか語れない領域が出てくる。それはナンバーワンでなくていい。唯一無二の存在として、その研究は当事者にしか語れないのだから。

僕も自分の好奇心のままに研究を続けた結果、多くの人に興味を持ってもらうことができた。テレビ朝日のディレクターさんから声がかかって人気番組「激レアさんを連れてきた」に出演させてもらえたり、直近では、ある大手出版社の編集者から書籍出版のオファーも受けた。

企画書には僕にしか語れないであろう項目が数多くあり、そこを改めて掘り下げる楽しみも感じた。どんなスタイルで生きたいかは自分の心が一番知っている。その本の中で、どんな試行錯誤と創意工夫があったのかを表現しようと思っている。

自分の人生の研究者になれ。セカンドキャリアという言葉に惑わされず、自分の中で最高だと思えるものに対して動いてみたらいい。動いた結果、やっぱり違うと思ってもそれは決して後退ではなく、明らかな前進なのだから。(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「0円Jリーガー安彦考真のリアルアンサー」)

◆安彦考真(あびこ・たかまさ)1978年(昭53)2月1日、神奈川県生まれ。高校3年時に単身ブラジルへ渡り、グレミオ・マリンガとプロ契約も、けがで帰国。03年に引退も、18年3月に練習生を経てJ2水戸と40歳でプロ契約。出場機会を得られず19年に旧知のシュタルフ監督率いるYS横浜に移籍。開幕戦のガイナーレ鳥取戦で途中出場し、ジーコの持っていたJリーグ最年長初出場記録(40歳2カ月13日)を上回る41歳1カ月9日でデビュー。175センチ、74キロ。