サッカー日本代表チームによる「兄弟対決」が実現した。6月3日、当初予定していたジャマイカ戦がコロナ禍による入国遅れで中止となり、急きょA代表とU-24(24歳以下)代表の強化試合が組まれた。テレビ中継される中、試合は3-0で兄貴分のA代表が貫禄勝ち。1つ1つのプレー強度の違いが、スコアに表れたように思う。
■41年前の日本代表兄弟対決
日本代表の歴史をひもとくと、前回の兄弟対決は1980年(昭55)12月14日。実に41年も昔までさかのぼることになる。82年ワールドカップ(W杯)杯スペイン大会のアジア予選を1週間後に控え、平均年齢20代前半という若き日本代表が1世代上の「日本代表シニア」と東京・国立競技場で対戦した。
時は、世代交代の端境期。W杯予選に向かう日本代表の壮行試合として、当時36歳だった日本サッカー界の大看板、釜本邦茂もいたシニアに胸を借りた。試合は碓井博行、西野朗、途中出場の今村博治が得点したシニアが3-2で勝利。日本代表は、長谷川治久と金田喜稔が得点するも及ばなかった。
今年で日本サッカー協会は創設100年を迎えた。今から25年前の1996年(平8)に発刊された「日本サッカー協会75年史」(ベースボールマガジン社)を手に取り、日本代表全記録をたどったが、そこには兄弟対決の記載がない。80年11月24日のワシントン・ディプロマッツ戦(国立、1ー1)の後に12月22日のW杯予選シンガポール戦(香港、1-0)と続く。12月14日の試合は記録に残らない「紅白戦」的な扱いだったのだろう。
日刊スポーツのデータベースの中に、当時の日本代表の先発メンバーの写真が残っていた。サッカー少年だった筆者にとっては、どれも懐かしい顔触ればかり。中でも好きだった選手がいた。前列左から3人目、戸塚哲也さんだった。
思わずスマホを手に「ご無沙汰しています、お元気ですか?」。突然の電話にも、昔と変わらぬ優しい声が聞こえてきた。60歳の還暦を迎えた現在、岐阜県で暮らしている。
■技巧派集団ヨミウリの天才
-日本代表の兄弟対決は41年ぶりになりますが、当時のことは覚えていますか?
「ありましたね。日本代表というのは名ばかりで、こっちは最年長が26歳の前田(秀樹)さんだったかな。相手が格上で、自分たちは小僧みたいなものでしたから」
-それでも絶対負けないぞ、みたいなものはありました? ガツガツいったとか?
「(同じ読売クラブの)小見(幸隆)さんから『お前たちに負けるわけにはいかねー』なんて言われた。ガツガツなんていけない。勝てるわけないよって、思ってましたから。ガマ(釜本)さん? ガマさんもいたのかな」。続けて「今の若い子(東京五輪世代)たちは本当にうまいですからね。A代表相手でもおもしろい試合ができる。楽しみですよ」。
戸塚さんは試合当時、19歳の期待の若手だった。天才少年と呼ばれ、技巧派集団の読売クラブにあって18歳1日という当時の最年少記録で日本リーグにデビューした攻撃的MF。当時では珍しいスペインの名門バレンシアFCへの留学経験もあり、巧みなドリブルに、吸い付くような柔らかなトラップ。空中認知能力を生かしたボレーシュート、鮮やかなプレーの連続に魅了された。何より、襟足の長い髪に涼しげな表情。そのアイドルのようなクールないでたちで、ド根性という言葉とは無縁のようなスマートさ。また、所属していた読売クラブにはジョージ与那城、ラモスらロングヘアをなびかせ、ヒゲをたくわえた個性派集団。不良っぽさのある雰囲気に加え、ドリブル、ワンツーと相手の意表を突くオモチャ箱のようなプレーの数々に、心をわしづかみにされた。
その憧れだった戸塚さんとはだいぶ時間がたった後年、思いがけぬ形で知り合いになった。筆者の住まいの近くに偶然、戸塚さんが経営する「酔臥居(すいがきょ)」という居酒屋があった。そこにいつも黒のTシャツ姿でカウンターに立っていた。串刺しにした鳥肉を次々と焼き、作業の合間にゴクゴクとアルコールを飲み干していく。焼き鳥だけでなく、どのメニューも味は絶品だった。ディープなサッカー談議がしたくなったら暖簾(のれん)をくぐった。酔いも手伝い、いろんな話を根掘り葉掘り聞いた。
-現役時代からお酒はかなり飲んでいた?
「練習が終わったら、さぁ飲みに行くぞって六本木とかね。でも飲みに行っても、サッカーのことばっかり話していた。朝までサッカー談議が終わらない」「二日酔いのまま試合に出たことがあった。そしたらマークに来た相手選手が『うわ、酒くせ~っ』って。そう言って離れていった」。今では考えられないサッカー選手の姿だが、それでも2度の得点王に輝き、日本リーグ(JSL)歴代8位の通算67得点。酒も飲むけど、サッカーも頑張る。昭和の「黒沢映画」に出てくる野武士のようなイメージを思い描いた。
■日本代表入りを固辞した理由
戸塚さんと言えば、ずっと日本代表入りを断っていたことで知られる。80年に日本代表にデビューして以降、欠かせない選手となったにもかかわらず、83年からは日本代表入りを自ら断った。真意は謎だった。日本代表の出場歴(国際A~Cマッチ)は38試合(5得点)。それは80~82年の3年間だけで36試合を数えている。だが85年10月、W杯メキシコ大会アジア最終予選で韓国とのホームアンドアウェー戦に勝てば、初めて日本がW杯に出場できるという重要な局面を迎えた。当時の森孝慈監督は「切り札」として、日本国籍を取得した与那城ジョージとともに戸塚さんを招集。封印を解き、代表へと戻った。
国立が超満員の6万人で埋まった第1戦、戸塚さんはFWで先発した。持ち前のキープ力を生かし、最前線でゲームメーク役を担った。ただ韓国の執拗(しつよう)で激しいフィジカルコンタクトに苦しみ、思うように好機をつくれない。豪快なミドルシュートをたたき込まれるなどし、早々に2失点。あの木村和司の伝説のFKで1点を返したものの、あと1点を取り返せずに1-2で敗戦。続く韓国での第2戦にも戸塚さんは先発したが、韓国の壁は厚く、0ー1で敗れた。W杯出場は夢と散り、この2試合を最後に代表でプレーすることはもうなかった。
なぜ代表入りをずっと断っていたのか、気になっていた。先輩記者から「日本代表に行くと下手になるって、行かなかったみたい」と冗談めかして聞かされたことがあったが、実際どうなのか。そんな話を本人に振ると、こう教えてくれた。
「当時の読売は代表よりも強かった。代表に参加してチームからいなくなると、帰ってきた時に自分のポジションがなくなってしまうからね。だから行きたくなかった。それに読売のサッカーはおもしろかったし、そっちでずっとやりたかったというのが一番」
20年ほど前に聞いた話だが、そんな内容だった。かつて隆盛を誇った読売クラブのサッカーは、日本にあって海外のチームのようだった。パスやドリブルにテンポがあり、リズミカルなサッカーはまるで音楽だった。そう言えば余談だが、戸塚さんに「息子さんもサッカーやっているんですか?」と聞いたことがあった。すると「毎日ギターばっか弾いている。全然サッカーなんて興味ないよ」と笑った。そのご子息は後に「Suchmos(サチモス)」という人気ロックバンドのメンバーとして、NHKの紅白歌合戦にも出場。そこは異才の遺伝子を受け継いでのものなのだろう。
■岐阜でのセカンドライフ
Jリーグのヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、柏レイソルを経て96年に現役引退。ただボールテクニックを買われ、97年にビーチサッカーの日本代表として世界選手権に出場している。そして現役時代から好きだったという飲食店を営みながら、その後はライセンスを取得し、指導者として活動の幅を広げた。地域リーグに所属していたFC岐阜、FC Mioーびわこ(現MIOびわこ滋賀)、町田ゼルビアで監督を務め、3チームを次々と日本フットボールリーグ(JFL)に昇格させ、「昇格請負人」と呼ばれた。
生まれも育ちも東京・世田谷の都会っ子だが、今は自然豊かな岐阜県に移住してのセカンドライフ。タンメン店の「湯麺戸塚」を開き、その傍らでサッカーの解説やイベントにいそしんでいるようだ。サッカー同様に鋭い感性の持ち主の戸塚さんだけに、そのタンメンの味は間違いなくうまいのだろう。
「コロナで今は大変ですけど、落ち着いたら是非、岐阜に遊びに来て下さい。アルコールも置いているので、ご一緒しましょう」
日本代表「兄弟対決」を取っ掛かりに、思いがけず41年前の異才との旧交が温まった。今もコロナが飲食業界には暗い影を落とす中、そんな雰囲気を微塵も感じさせぬ明るい声。こちらの心にポッと火がともった。パンデミックのトンネルを抜けた先の祝杯が、今から楽しみでならない。【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)