ワールドカップ(W杯)カタール大会の開幕まで20日でちょうど1カ月。7大会連続出場の日本は、初の8強入りを目指している。過去最高成績は16強。その3度の1次リーグ突破の瞬間を現地で取材した日刊スポーツ記者が、それぞれのチームの転機を踏まえ森保ジャパンを考察する。第1回は02年日韓大会のトルシエジャパン担当。

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人はショックを受けると表情を失うという。その通りだと思った。試合後の会見に臨んだ日本代表トルシエ監督の顔は能面のようだった。「フランスは宇宙人に見えるくらいすごかった。我々は準備しなおさなければならない」。決して弱みを見せなかった野心家の弱音を、私はこの夜、初めて聞いた。

2001年3月24日、パリのフランス競技場。

トルシエジャパンは98年W杯王者フランスに日本サッカー史に残る大敗を喫した。前半8分、DF松田のファウルからPKを決められると、あとは正確無比、創造性に富んだパスを駆使するフランスのワンマンショーになった。試合前の大雨でぬかるんだピッチに、日本選手は足を取られ、ミスを連発したが、フランス選手のプレーにほとんど乱れはなかった。

スコアは0-5。「高い技術を誇る」と言われた日本の黄金世代が、まるでレッスンを受けているようだった。「精度もスピードもまるで違う。このままではワールドカップもだめ」。MF稲本は本音を隠さなかった。私自身、日本選手を目で追うよりも、MFジダンの異次元プレーに見とれてしまったほどだった。

敵地に意気揚々で乗り込んだ。前年6月のモロッコでの国際大会で、フランスに2-2で引き分ける大善戦を演じ、同10月のアジア杯を圧倒的な攻撃力で制していた。パリでの再戦を控えた会見で、トルシエ監督は「どうやってジダンをマークするのか」の質問に「ジダンには中田英をマークしてもらう」と返した。その高い鼻は、見るも無残にへし折られた。

実はこのパリでの屈辱的な大敗こそが、翌年の02年W杯快進撃への転機だった。日本の中盤を形成していた中田英、名波、稲本らの攻撃力は高いが、世界レベルの進撃を止めるには、献身的な走力と判断力でパスの起点をつぶす門番が欠かせない。トルシエ監督はその重要性に気づき、清水でDFからMFにコンバートされた戸田和幸の初招集を決めた。

2カ月後の同5月に開幕したコンフェデレーションズ杯で代表デビューした戸田は、初戦のカナダ戦から先発し、中盤の守備の要として日本の快進撃を支えた。決勝のフランス戦は惜敗したものの、最少失点に抑える善戦だった。そして翌年の02年W杯。モヒカンを真っ赤に染めた戸田は、気迫のプレーで日本の決勝トーナメント初進出に大きく貢献した。

今年5月、20年ぶりにトルシエ氏にインタビューした。パリでの惨敗について彼は「0-5で負ける予想はしていなかったが、そこで落ち着いて分析し、ポジティブな情報を得られれば問題ないと思っていた。過信していた選手たちにもいい刺激になった。あの試合はW杯への玄関口だった」と、振り返った。

森保ジャパンもアジア最終予選で序盤3戦1勝2敗と、どん底を味わった。あの窮地を乗り越えた経験を、「W杯の玄関口だった」と、後に振り返ることができるか。本番までちょうど1カ月となった。

「日本は絶望的な状況から逆転で予選突破して、明らかに自信になった。ドイツ、スペインとも同組だが、謙虚にコツコツと勝ち点を積み重ねれば、奇跡が起きるかもしれない。日本は強い組織力、素晴らしい技術を持っている。今大会が日本サッカーの1つの転機になると信じたい」。4カ月前に聞いたトルシエ氏の発言が今、私の中で説得力を増している。(つづく)【首藤正徳】

◆サンドニの悪夢 フランス競技場があるパリ郊外のサンドニでの日本対フランスが0-5の惨敗に終わりこう呼ばれることもある。