日本サッカーの父と呼ばれるデットマール・クラマーの招請は、日本蹴球協会(現日本サッカー協会)がすがった最後の手段だった。64年の東京五輪開催を前に、日本のサッカーはどん底の不振にあえいでいた。

56年メルボリン五輪は、引き分けた韓国に抽選で勝って予選突破したが、初戦で開催国オーストラリアに完敗。58年、東京で開催されたアジア大会でもフィリピンに0-1、香港に0-2と1点も取れずに1次リーグであっさり敗退した。60年ローマ五輪の予選も韓国に得失点差で敗れ、次回の東京大会への不安が増していた。このままでは開催国が1勝もできない事態になる-。改革の必要に迫られていた。

会長だった野津謙(のづ・ゆずる)は、当時はどの競技も採り入れてなかった外国人プロコーチの招請を提案した。だが、すんなり決まったわけではない。メキシコ五輪でコーチを務めた岡野俊一郎が振り返る。

岡野 東京五輪は本来、昭和15年(1940年)に開催予定だったが、日中戦争で返上になった。24年たって、ようやく開催できる名誉な大会で、なぜ外国人コーチが必要なのかと協会内でも議論があった。

医者の父親を持つ野津は、自身も小児科医で環境衛生学など大きな功績を残している。サッカーでは関東大学リーグ、アジアユース選手権などの創設に尽力した人物でもある。ベテランサッカー記者の賀川浩は、野津の先見の明とリーダーシップがなければクラマーの来日は実現しなかったと言う。「何事にも先々の見える人だった」。反対意見を振り切り、親交のあったドイツ協会にコーチ推薦を依頼する手紙を書いた。

西ドイツ代表のアシスタントコーチだったクラマーは、チリ代表との試合中、監督のゼップ・ヘルベルガー(54年W杯優勝監督)から「日本に行って来い」と言われたという。

クラマーはケガの影響で現役を早くに引退し、指導者に転向していた。当時35歳ながら、西ドイツ協会の西部地区主任コーチ(デュイスブルク)を務め、将来を嘱望された指導者の1人だった。ヘルベルガーから突然、アジアの小国への派遣を打診されたとき「それは意味のあることなのか」と戸惑ったのも無理はない。だが、日本とは、不思議な縁でつながっていた。

クラマー 庭師だった父とも話し合った。父は日本庭園も手がけていた。家には日本の文化に関する本がたくさんあった。ヘルベルガーは笑いながらこう言った。「彼らの技術は素晴らしい。ただし、プレッシャーのない状況でだ。相手がいる状況には弱い。試合の仕方を学ぶ必要がある」とね。まあ、いろんなことがあって私はOKしたよ。

クラマーが初めて日本代表の試合を見たのは60年8月23日。ローマ五輪予選で敗退したチームは欧州遠征中で、西ドイツ・アーヘンの地元クラブに0-5と惨敗した。

岡野 見ていたクラマーが嘆いていた。「チョップ、チョップ、アーヘン…」。チョップというのはパス。パスが3本つながらず相手に渡ってしまうという意味だった。

特別コーチとして契約したクラマーは、その年の10月29日、雨の羽田空港に降り立った。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

クラマーの衝撃 心つかむためともに寝食、風呂も一緒に/クラマーの息子たち(3)>>