1960年10月29日に初来日したデットマール・クラマーは、サッカー日本代表特別コーチ就任会見の冒頭でいきなり衝撃を与えた。ベテラン記者の賀川浩は、今でもその光景を覚えている。

賀川 粉末を溶かして作ったジュースがテーブルの上にあった。クラマーはそれを見て「私はプロのコーチである。プロは常に自分を万全に整えておかなければいけない。こういうものは飲まない」と脇によけた。プロとはそういうものなのかとビックリした。

日本をどう再建するのか。その方法については、日本人が驚くような言葉を使って力説した。

「私は選手に大和魂を取り戻してもらうことを願っている」-。

会見場は騒然とした。賀川は「戦争に負けてから久しく聞かなかった大和魂という言葉をドイツ人から聞くとは思わなかった」と振り返る。

クラマーは第2次大戦中、ドイツ軍のパラシュート部隊に属し、イタリア戦線に従軍。捕虜になった経験を持つ。

クラマー 隊長は決まってこう言った。「作戦遂行時は日本人のことをイメージしろ」と。戦争がどうこうという問題ではない。私にとって大和魂とは、自分を制するということを意味する。苦しいことも制する主とならなければならない。これは生きるために必要な哲学だ。スポーツの世界でも自分を制することなく成功はあり得ない。足が痛いからプレーをしない。それもわかるが、それだけでは進めないのだ。

FW釜本邦茂はあるとき、膝の内側靱帯(じんたい)を痛めたため練習を見学していた。すると、クラマーに「アウトサイドだけで蹴れば練習ができるだろ」とボールをパスされた。また、別の選手には座ったまま上半身だけで練習ができるヘディング特訓をやらせた。

一方で、重要視したのは、文化や風習の違う若者たちの心をつかむことだった。通訳兼アシスタントを務めた岡野俊一郎は来日した当日、東京都内の宿泊ホテルにクラマーを送り届けた。「選手はどこにいる? すぐに会いたい」と迫られ、選手の宿舎は本郷の日本旅館だと説明した。布団で寝て、朝は納豆にみそ汁、昼は丼もので夜は刺し身。一緒に寝泊まりなんて無理だと訴えた。

岡野 クラマーは「選手と一緒に生活しなくて、どうやって選手の気持ちが分かるんだ」と聞き入れなかった。翌日には荷物をまとめて選手と同じ旅館に入った。

寝食をともにし、風呂にも一緒に入った。

「私がうまくはしを使えるようになるのと、君たちがサッカーをうまくなるのとどっちが早いか競争しよう」。

グラウンドを離れると壁をつくらなかった。選手が就寝後に部屋を見回り、はだけた布団を掛け直した。「それを選手が見て、クラマーの人柄に触れた」と岡野は懐かしむ。

指導は厳格かつ理論的だった。身長165センチほどの小さなプロコーチは、日本代表の選手たちに対し、まるで小学生に教えるように基本のインサイドキックから指導を始めた。「若い選手は好意的だったが、ベテランは最初の頃は納得してはいなかった」。4年後の東京五輪へ、クラマーの挑戦が始まった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

「正確に蹴る、止める」俊敏性生かすための基礎反復とコーチ学導入/クラマーの息子たち(4)>>