[ 2013年12月27日14時18分

 紙面から ]2010年2月16日付本紙1面<連載第3回>

 安藤美姫(26=新横浜プリンスク)は、本能のまま行動する人だった。印象的だったのは10年2月14日。バンクーバー五輪代表として現地入りした安藤を見て驚いた。美白だった顔が、明らかに浅黒く日焼けしていた。美白が良しとされるスケーターとしては前代未聞の変貌ぶり。バレンタインデーのサプライズは「美姫ガングロ上陸」の見出しで本紙1面に掲載された。

 当時のフリーで演じた「クレオパトラ」には、アフリカ系の血を引くという説があり、身も心も絶世の美女になりきったという構成で記事は落ち着いた。だが実際には、日焼けに大した理由はなかった。周囲の驚きなどお構いなしに「日サロ(日焼けサロン)に行っていました。すみません…」と照れ笑い。合宿地の米コネティカット州が寒かったといい、日焼けサロンは「体を温めるのにもよかった」と笑い飛ばした。

 予想もできない行動に出る安藤は取材のときも後先考えていない印象を受けることがあった。英語が堪能で、日常的に使っていたためか「えーっと、日本語で何て言うんでしたっけ」と、頭の中にあるであろうことをかみ砕く前に言葉にしていた。「トリノ五輪の時に持ち上げていた人たちが、五輪が終わった途端に離れていった」と報道陣への不信感をあらわにすることもあった。バンクーバー五輪翌日には「ああいうアクロバチックな動きがしたい」とフリースタイルスキー・エアリアルに興味を示した。そこに計算はない。

 パリを訪れれば、選手という立場を忘れておしゃれに夢中になった。同じコーチに師事していた織田信成が出場した09年フランス杯に同行。五輪まで約4カ月という時期に、ヒールの高い靴でシャンゼリゼ通りへ買い物に出掛けた。足首をひねったら危ないという気持ちより、パリを堪能したいという思いが勝った。

 今回の出産直後の競技復帰も、本能の行動だと思う。4回転ジャンプにこだわって失敗したトリノ五輪。モロゾフ・コーチの意向で、表現力で勝負したバンクーバー五輪。出産というリスクはあったが、過去2度の五輪とは違い、自分が納得する形で挑戦したかったのだろう。

 本能的に行動する危うさも手伝い、新聞やテレビで頻繁に登場した。みんなが知りたい存在となり、フィギュアスケートを五輪年に注目される競技から、毎年見たいスポーツへと押し上げた。通っていた中京大は、今や施設が充実したナショナルトレーニングセンターとなった。後に中京大に進学した浅田真央や村上佳菜子に道を切り開いた。

 フィギュアスケートのような採点競技は、第三者の主観に委ねられる割合が高い。日焼けや出産などの挑戦は理解されにくいだろう。ただ、今は非常識でも数年後、常識となることもある。安藤は革命児だったのかもしれない。【高田文太=08~10年担当】