今年のスポーツ界を振り返る連載「取材ノートから」の第2回は、陸上男子の桐生祥秀(21=東洋大)が出した9秒98を振り返る。日本陸上短距離界の悲願を達成した9月9日の日本学生対校選手権男子100メートル決勝-。桐生はレース前の心の余裕、レース運びなど、過去にない境地を開拓していた。

 

 今季、桐生が走る国内のレースは全て取材した。走る前、言葉の変化が気になった。実力が抜けている国内大会の場合、桐生はいつも、4年前に出した10秒01の「自己記録の更新」を目標にする。だが、あの日は違った。8月の世界選手権男子400メートルリレーで左太もも裏を痛めており、棄権と背中合わせの状態。「優勝すればいい」と言い、記録にこだわっていなかった。

 決勝の4時間前。200メートル予選を走り、自己記録から1秒も遅い、21秒41(向かい風0・4メートル)。万全には程遠く、100メートル決勝出場は「コーチと相談します」と話し、サブトラックに向かった。外で待っていると2時間後、桐生は穏やかな笑みで歩いてきた。棄権を伝えに来たかと思いきや「走りま~す」。スタッフではなく、自ら出場する意向を伝えにきた。予選ならともかく、決勝は自らの世界に入り込む桐生を見ていただけに新鮮だった。リラックスしていた。

 レース中の最高速度の出現区間にも変化があった。16年リオ五輪、17年の織田記念国際と日本選手権はいずれも、55メートル地点で最高速度を出した。9秒98の時は65メートル、後半追い込み型の選手の数字だった。いつも48以上の歩数も47・3。「直接的な理由は分からないが、長い距離を走ると自然と負荷のないフォームになる」と土江コーチ。世界選手権から帰国後、100メートル全力ダッシュはできず、250~300メートルを力を抜き走る練習に注力した。意図しないけがの功名もあった。レース前の心の余裕、レース運び。今季最後の100メートルで新境地に達し、9秒台を出した。

 ただし桐生は、大舞台での勝負において結果が出ていない。山県、サニブラウン、ケンブリッジ、多田、飯塚。国内のライバルの中で桐生だけが五輪、世界選手権で準決勝進出経験がない。国際大会での活躍がなければ、日本記録保持者の称号が内弁慶の印象を際立たせてしまう。「10秒の壁」の次は「世界の壁」を破る姿に期待する。【上田悠太】

 ◆桐生祥秀(きりゅう・よしひで)1995年(平7)12月15日、滋賀県彦根市生まれ。中学で陸上を始め京都・洛南高3年の13年4月に日本歴代2位の10秒01を記録。14年6月に日本選手権初優勝、同7月の世界ジュニア選手権で同種目日本人初の銅メダル。15年3月のテキサス・リレーで追い風参考ながら9秒87。昨年6月には3年ぶりに10秒01をマーク。400メートルリレーで16年リオ五輪銀メダル、17年世界選手権銅メダル。家族は両親と兄。176センチ、70キロ。