陸上男子100メートルの山県亮太(28=セイコー)が、9秒95(追い風2・0メートル)の日本新記録を樹立した。

19年にサニブラウン・ハキーム(22=タンブルウィードTC)がマークした従来の記録を0秒02短縮。過去2年は腰痛、肺気胸、靱帯(じんたい)断裂、右膝痛など故障が続いていたが、「10秒の壁」を突破するだけでなく、一気に歴史を塗り替えた。9秒台は桐生祥秀(25)、サニブラウン、小池祐貴(26)に続き日本勢4人目となり、東京オリンピック(五輪)出場へ道が開けてきた。

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生きてくれるだけでいい-。そう願われて生まれた子は1万588日後、歴史を塗り替えていた。速報掲示は9秒97。日本タイ記録か-。1分後。電光掲示の数字は、日本新記録に変わった。9秒95。「公認であってくれ」と願った風は、ギリギリの追い風2・0メートル。山県は「ずっと出したかった9秒台を出せた。97でもうれしかったが、まさか日本記録の95が出たとは思わなかった。2倍うれしい」。自己ベストは過去2度の10秒00。手をたたき、感情を込め、両腕を上げた。

生まれた時から試練に立ち向かっていた。1992年(平4)6月10日。1730グラムの未熟児だった。新生児集中治療室で55日間。予定より2カ月早く産声をあげた体にはチューブが通され、呼吸は弱々しかった。父浩一さんのノートには当時の胸中が記されている。「助けてください」「亮太が無事に育つことを祈る」。1年間の外出禁止が解かれた日に出掛けた三重・伊勢でも緊急入院。いつ途切れてもおかしくない命をつないでいた。そのノートを山県は見たことはないが、家族への感謝は絶対に忘れない。だから、朝起きると故郷・広島を向く。そして手を合わせる。

競技人生も逆境の繰り返しだ。それを乗り越えて進化を重ねる。15年は腰痛で何カ所も病院を回るも治らず、新幹線の中で涙を流す姿があった。原因が筋肉不足と知り、翌年に復活。この2年もそうだ。18年は好条件でなくとも好記録を連発し、9秒台は時間の問題のはずだった。届かない0秒01を追求し、さらなる筋力強化に励んだが、それがあだに。体のバランスが崩れた。腰痛、そして肺気胸、右足首靱帯断裂と負の連鎖が続いた。昨年も2度の右膝痛に悩まされていた。

変化を求めた。「殻を破って、変えないと」。今まで技術面の指導を受ける専属のコーチはいなかったが、2月から高野大樹コーチに師事する。「大改革」と上半身など膝に負担のかからない動きを身に付け、海外のトップ選手の動きも参考に技術を研さん。「変化を恐れず、次に生かすスタイルは変えない」。けがをする前は未開だった境地にたどり着いた。

追い風1・7メートルだった予選の10秒01を含め、東京五輪の参加標準記録(10秒05)も突破。日本選手権で3位以内に入れば、代表に決まる。「しっかりと気を引き締めて強い気持ちで臨みたい」。もしも…昨年が五輪だったら、活躍する自信はなかった。暗闇を抜けた今は、明るい未来を現実的に描ける。21年東京の主役に躍り出る。【上田悠太】

◆山県亮太(やまがた・りょうた)1992年(平4)6月10日、広島市生まれ。修道中、高から慶大を経て、15年にセイコー入社。16年リオデジャネイロ五輪では、100メートルで2大会連続となる準決勝に進出。400メートルリレーは第1走者で銀メダルに貢献した。18年ジャカルタ・アジア大会では10秒00の銅メダル。趣味は釣りで、2月には東京湾で50センチ級の真鯛をゲット。177センチ、72キロ。

◆東京五輪代表への道 各種目最大3人。参加標準記録を突破するか、世界ランキングで出場資格を満たすことが条件。その上で、日本選手権3位以内に入れば代表になれる。それで3枠が埋まらない場合は、日本選手権の結果、世界ランキングの上位などの要素から選ぶ。

◆追い風2・0メートル 100メートルなどでは、追い風が秒速2・0メートルを超えると記録は公認されず、「参考記録」になる。追い風2・0メートルは公認されるギリギリで、最も有利だったといえる。風は瞬間風速でなく、平均値。セイコーはウェブサイトで「一説には」と前置きし「風速2メートルの場合、無風時と比べて単純計算で0秒17速くゴールすることになります」としている