10年バンクーバー五輪フィギュア男子フリー。ショートプログラム(SP)4位と表彰台に向け絶好の位置につけた織田信成(当時22)は20番滑走だった。直前に滑ったライサチェク(米国)のミスのない演技に観客が沸く中、集中しているように見えた。

 SP3位の高橋とは6点弱の差で、十分に射程圏内だった。曲は喜劇王チャプリンを題材にしたメドレー。冒頭の4回転を3回転にし、ミスを避けた確実な演技に徹した。終盤、3回転ループでバランスを崩し、手をついた。その時だ。織田は演技を中断し、審判席に近づいた。右足の裾をたぐり上げ見せると、靴ひもが切れていた。

 実は「前から切れていたが、感覚が変わるのが嫌で、切れたところを結んでやっていた」。それが人生最大の舞台でほどけた。1度、氷から降りて結び直し、再び氷上に戻った。しかし、選手自身の過失で演技を中断すると減点2。手をついた減点1とともに合計減点3で、フリーは7位。総合でも入賞だが7位に落ちた。「ショックすぎて言葉にならない」と、結果を受け止めるにはあまりにも酷なアクシデントだった。

 06年トリノ五輪は代表から漏れた。05年12月に行われた最終選考の全日本選手権で1度は優勝となったが、その後採点ミスが発覚。高橋に優勝をさらわれる形となった。

 バンクーバー五輪は、その苦難を乗り越えてつかんだ初の五輪だった。感情の起伏が激しく、よく泣いた。半面、明るさも天下一品で、フリーの演目は織田に最適だった。だが、喜劇王の舞台は、靴ひもが切れたことで、一瞬にして悪夢の“悲劇”に転じてしまった。(敬称略)【吉松忠弘】