シニアの世界は、自分の想像をはるかに超えていた。12月23日、平昌(ピョンチャン)五輪代表争いの裏側で、全日本選手権を7位で終えた本田は目を真っ赤にした。リンク裏の取材エリアで涙をこぼし「スケートでの夢が五輪なので、今日、自分ができなかったことをずっと心に留めておきたい」と丁寧に言葉を紡いだ。

 3月、世界ジュニア選手権で五輪金メダル候補のザギトワ(ロシア)に次ぐ2位に入った。「ショート(プログラム=SP)はノーミスが絶対条件。でも、フリーはハラハラしてもらう演技を続けて、大事なところだけを頑張りたい」。ここぞの大会で見せてきた集中力に、自信があった。

 それを覆された転機が、10月のグランプリ(GP)シリーズ第2戦スケートカナダだった。SPは12人中10位。ジャンプだけでなく、スピンの回転数が足りないなど、頭は真っ白。放心状態になっていると、浜田コーチから「スピンは裏切らない。よく練習している人はできる。本当の意味での執念がない」と厳しい言葉を投げかけられた。

 それでも本田は素直な心境をこう明かした。「自分の中ではしっかり練習したつもりだった。そこに関してはもっと増やせばいいのか、質の良い練習をすればいいのか分からないけれど、全日本までに自分の出す答えが分かると思います」。その時点では自分の価値観と、周囲の目を擦り合わせることができなかった。

 11月上旬のGP中国杯を終え、取り組む姿勢が少し変わった。約1カ月半の間「嫌い」と公言するスピン練習の時間を増やし、浜田コーチからも「真凜にしてはよくやってくれた」と評された。1年間、どんなに苦しくても言葉にし続けた「五輪に出たい」という決意。目標を決して隠すことがなかった本田が、五輪切符を逃して気付いた。

 「シニアの舞台で全然、結果も残せていない。少し間違いがあったのかなと思う。見つめ直したい」

 スケート人生で最大の挫折かもしれない。だが、まだ16歳。この無念を晴らす時間はたっぷりある。【松本航】