12月24日、全日本選手権の男子フリー。SP4位から逆転を狙う村上は2本目の4回転サルコーをミスした瞬間、「オリンピックは今回無理かな」と悟った。でも「そこで諦めたら何にもならない」とすぐに思えた。成功も失敗もつまった約4分30秒の演技は、右足甲のけが、肺炎を乗り越え滑った自身を投影していた。「波のような4年間でした。滑っている最中も最後も笑顔を出して、笑顔でリンクを離れられて良かった」。5位の悔しさの中で素直にそう言えた。

 神奈川で生まれ、9歳で家族とともに米国ロサンゼルスへ渡った。競技を始めたのは10歳。やがて米国代表として国際大会に出場するようになったが「ただスケートをしているだけ」。そんな中、出会ったのが当時ロサンゼルスを拠点にしていた浅田真央の亡き母、匡子さん(享年48)。「大介は日本生まれ日本育ちなのに、なんで日本代表じゃないの」。その言葉に刺激され、07-08年から日本代表となった。11年12月、「2人目のママ」と慕った匡子さんの訃報を聞いた時は、心の痛みが「ハードでした」。五輪で滑る姿を見せたかった。

 光が差し始めたのは、ソチ五輪の翌シーズン。14年NHK杯でGPシリーズを初めて制し、15-16年にはGPファイナル初進出。18年平昌(ピョンチャン)五輪に向け着々と歩みを進める中、16年11月の東日本選手権で右足甲を負傷した。氷上練習を再開したのは17年1月。その復帰の過程で、羽生、宇野に刺激を受け「自分も跳びたい」と新たに4回転ルッツ、同フリップの大技に挑み始めた。精度が高まった4回転フリップをNHK杯と全日本で導入する予定だった。だが、10月末の東日本選手権を終え、米国に戻ると急性肺炎を発症。11月のNHK杯を欠場した。2週間寝込んだ後、急ぎ全日本に向け練習したが、大技挑戦は断念せざるを得なかった。

 好きな言葉は「ハッピー」。笑顔を絶やさぬ人柄が人を引き寄せる。顔が似ていることから親交を深めたドジャース前田健太からは、LINEで頻繁にアドバイスをもらった。過去に曲を使用した縁で「よっしー」と呼ぶXJAPANのYOSHIKIからも「全日本頑張ってね」とエールが届いた。「お帰り」という温かい声援の中で滑った2年ぶりの全日本選手権。「とにかく頭を上げて、次の道へ」と上を向いて再び歩み始める。【高場泉穂】