「トリプルボランチだったもんなあ~」。元日本代表の水沼貴史氏は、斎場に飾られた30年前の日本代表の集合写真を、懐かしそうに見つめていた。1日、先月26日に79歳で亡くなったサッカー元日本代表監督の石井義信さんの通夜が、神奈川県内で行われた。

10年3月、インタビューに答える石井義信氏
10年3月、インタビューに答える石井義信氏

 アドバイザーを務めていた東京の関係者や監督として超攻撃的サッカーを指揮したフジタ工業(現湘南)の関係者らに混じって、かつての日本代表選手たちも故人をしのんだ。藤和不動産(湘南の前身)時代の懐かしい写真とともに、88年ソウル五輪予選の日本代表の写真も飾られていた。

 87年10月、石井監督率いる日本代表は68年メキシコ大会以来20年ぶりの五輪出場にあと1歩と迫った。86年メキシコW杯最終予選で韓国に敗れた森孝慈監督からチームを引き継ぎ、ずらりと守備的選手を並べて戦った。7人で守り、攻撃は前線の3人任せ。夢はかなわなかったが「アジアを勝ち抜くため」(石井監督)の現実的な策だった。

4日行われた中国でのソウル五輪アジア最終予選で中国に1-0で勝ち帰国した日本代表の石井義信監督(1987年10月5日撮影)
4日行われた中国でのソウル五輪アジア最終予選で中国に1-0で勝ち帰国した日本代表の石井義信監督(1987年10月5日撮影)

 森監督時代から攻撃のキーマンだった水沼氏は、石井監督1年目に外れた。守備をしないことが理由だった。石井監督に代表落ちを告げられて「必ずここに戻ってきます」と言ったそうだ。1年後、日本リーグのアシスト王として再び代表ユニホームに袖を通した。

 「自分でも覚えてないんだけど、だいぶだってから石井さんに聞いた。いい話だよね」と水沼氏。腹を割って監督と話し、納得してチームを去り、努力の末に再び戻る。当時の監督と選手の関係が分かる。「コミュニケーションがあったなんてもんじゃない。コミュニケーションばっかり」と「トリプルボランチ」の都並敏史氏は笑った。

 「コミュニケーション不足」で、ハリルホジッチ監督は解任された。実際のところは分からないし、言葉の壁があったのかもしれない。ほぼ選手を固定して戦った(選手層も薄かった)当時と比べるのも無理がある。が、指導者と選手のコミュニケーションの大切さは変わることはない。

 30年前、石井監督の率いた日本代表は最後の「アマチュア代表」だった。チームに「プロ」は西ドイツから帰国した奥寺康彦氏1人だけ(もう1人の木村和司氏は代表から外れた)。次の横山謙三監督時代はカズやラモス氏ら「プロ」の代表チームだった。

 サッカーだけではない。スポーツ界は30年で変わった。4月29日の全日本柔道選手権では当時世界王者として代表争いをしていた小川直也氏の息子、雄勢が20年東京五輪に名乗りをあげた。代表選考方法など「オレらの時とは違うから」という直也氏だが、五輪を目指す思いは変わらない。

男子100キロ超級決勝を制した小川雄勢(右)は父直也氏(左)と笑顔で握手を交わす(撮影・今浪浩三)
男子100キロ超級決勝を制した小川雄勢(右)は父直也氏(左)と笑顔で握手を交わす(撮影・今浪浩三)

 同30日に決勝が行われたシンクロは今大会から「アーティスティックスイミング」になった。かつて「シンクロの女王」だった小谷実可子さんは「何回も聞いて慣れてきた。でも、私たちの時のことを話す時はシンクロで、って言ってるんですよ」と笑った。

 「温故知新」とはよく言ったものだ。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」。スポーツ界の変化は早い。ただ、それも歴史の中から生まれるもの。あの「守り倒した」石井監督のチームがあったからこそ、5大会連続W杯に臨む代表がある。歴史から学ぶことは、たくさんある。


◆荻島弘一 東京都出身、57歳。84年に入社し、整理部を経てスポーツ部勤務。サッカー、五輪などを担当し、96年からデスク。出版社編集長を経て、05年から編集委員として現場取材に戻る。