チームスポーツは円陣を組む。アメリカンフットボールはハドルと呼ぶ。米国ではペップトークと言って、監督が試合前に選手を鼓舞する。日本では試合直後もハドルを組むチームが多い。監督はたまにほめるが、大抵は反省点を挙げて、次戦の奮起を促す。

今の日大に試合直後のハドルはない。コロナ禍でゴール裏空き地のテントで、選手はすぐに着替え始めた。周りでコーチは何するでもなく、声をかけるでもなく、立ち尽くしていた。ぼうぜん自失だった。

3日の法大とのリーグ初戦は、いきなりの決戦も黒星を喫した。関東連覇で「日大の使命」という甲子園ボウルへの道は遠のいた。選手よりコーチのショックが大きそうに見えた。まだ3試合に可能性は残るが、シーズン終了のようだった。

平本ヘッドコーチ(HC)は10分ほどして姿を見せた。報道陣に囲まれると目をうるませ、言葉を詰まらせた。「学生に申し訳ない」。日大のエース背番号10を背負い、富士通では初の日本一に貢献した。2年前に引退したばかりでコーチ経験はない。試合は予想通りベンチワークの差が出た。

前半終了間際に2本目のFGを決め、1点差に詰めた。タイムアウトをとってFG成功も、28秒残した。タイムアウトは残り時間ギリギリでとるもの。案の定、法大に残り5秒からスペシャルプレーのTDパスで、13-21と差を広げられた。

「この1カ月で一番成長した」と、QBには1年金沢を先発に抜てきした。第3QにTDパスを決め、TFPのパス成功で21-21の同点とした。3インターセプトは痛恨も法大を上回る232ヤードを投げ、ルーキーは期待に応えた。ここもTD後の選手交代に手間取ってタイムアウトを使い、想定不足をうかがわせた。

残り4分きってのTDランで28-35と、再び射程圏とした。直後のキックオフ。第3Qの同点直後にリターンTDされたRB星野にハーフまで返された。勝負のオンサイドキックもあり得た。少なくとも蹴り出すか、ゴロキックの星野対策の指示はなかったのか?

ライバル法大は逆に巧みな采配だった。星野がランと見せ掛けてパスでTD。前半最後はパスを受けたWR小山が、後ろから駆け込んだ星野にバックパスして独走TDした。星野はパス、レシーブ、リターンにランでの4刀流TD。日大が低迷した90年代に関東8連覇した、多彩な攻撃復活を思わせた。

日大は新体制33日目で初の試合だった。平本HCは「選手で考えていた試合運びに比べて難しかった」と経験や準備の不足を認めた。監督は置かずにHCがトップの体制。「全責任は私が負う」と話していたが、果たして彼だけ、ベンチの責任だろうか。

18年に反則問題で1年間出場停止となり、創部初の下位リーグに降格した。処分直後は改革を解除の条件とされて監督公募などしたが、解除は拒否された。大学トップの田中理事長がだんまりに、関東学連は「姿勢や態度の問題。熱気がまったく伝わってこなかった」と断じた。

法大戦に部長らの姿はなかった。大学に根本の問題は変わっていない。関東制覇まで復活させた橋詰前監督は続投希望も受け入れられず。8月31日に3年の任期満了で、他のコーチ陣と全員が退任した。不祥事があったわけでもないのに、開幕直前の総取っ替えはあり得ない。大した引き継ぎもなく敗戦は当然と言えた。

橋詰前監督は今年、選手勧誘の活動もできなかった。来年以降へも影響は必至となっている。平本HCは「つなぎではなく中長期プランでやっていきたい」と話すも、1年契約という。1年後の保証はない。

昭和の黄金時代は試合後あいさつが済んだ選手が、篠竹監督の下へダッシュで集まった。ハドルで監督はドスの利いた声で常にゲキを飛ばした。今や全盛のショットガン隊形を築いたカリスマ指導者。鉄拳のスパルタで監督を追われたが、選手は「オヤジ」と慕った。

あのころの日大はチーム一丸、一体感があった。他を寄せ付けない赤い塊だった。背任で逮捕の理事も、日本一主将の1人だったが…。4年は反則問題の年に入学とまさに波瀾(はらん)万丈の4年間となった。またも振り回され、置き去りにされた。再びフェニックスが羽ばたく日はいつになるのだろう。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)