大日本紡績(以下日紡)の「バレー部オールスター」が大阪・貝塚にできたのは東京五輪の10年前、54年(昭29)だった。「ニチボー75年史」(65年編集)によると、日紡にバレー部ができたのは23年。「女子スポーツで上を向いて動くのはバレーボールだけ。青空を見て心地よく、狭い日本でもできる最適のスポーツ」(同史)というのが理由だった。戦前に全日本3連覇を果たした兵庫・尼崎や栃木・足利、岐阜・関ケ原などにチームがあった。

9人制が主だった当時、日紡とともにバレー界の覇権を競っていたのは倉紡や鐘紡、日清紡の紡績会社チームだった。24時間稼動の紡績工場では多くの若い女性が働き、その姿は「女工哀史」と呼ばれた。手軽なレクリエーションとして親しまれたバレーボールは、次第に「社運」を盛り上げる企業スポーツになっていく。53年11月、ライバルの他社に負けない強力なチームを、と大阪の本社に近く、約5万坪の広大な敷地があった貝塚工場に有力選手を集結させ、新しいチームを結成することが決まった。

監督として白羽の矢が立ったのが、関学大バレー部時代に尼崎でコーチ経験があった大松博文(当時32歳)だった。大松はのちに「会社の代表チームなら当然、勝たなきゃいけない。勝つ苦しさは知ってるし、『やめたい時にはいつでもやめる』という条件でやっと引き受けた」と振り返っている。渋ったものの、最後は社長命令で初代監督に就任した。

始動は54年1月。大松には1つの信念があった。「伝統あるチームと同じことをやっていては日本一になれない。日本一苦しい練習をやって勝ち取る栄冠でないと、意味がない」。スタートから屋外の赤土コートで何百回ものレシーブ練習を行った。手の皮がすりむけ、出血する選手たち。同世代の女性社員からは「大松は女性の敵」「あんなことはやめさせろ」と抗議が殺到した。

結果はすぐに出た。創部2年目の55年には、早くも実業団選手権、全日本総合、国体を制し3冠達成。有望新人が毎年のように入部し、戦力も充実した。それでも練習の激しさは増すばかり。周囲からは非難の嵐だったが、猛練習は厚い信頼関係の上に成り立っていた。当時、産経新聞記者として取材し、武庫川女大バレー部時代にインカレ優勝経験を持つ八木嬉子(70)が証言する。

八木「選手に取材していて、不満を聞いたことがなかった。大松監督は1つ1つをかみ砕いて、覚えるまで丁寧に教える。時には手が出ることもあったけど、たたくのはお尻とか肉のついているところだけ。顔や体は決してたたかなかった。こんな指導を受けてみたかった、と選手がうらやましいぐらいでした」。

57年には体育館が完成。天候や日暮れに左右されなくなると、大松の指導は深夜にまで及ぶようになる。24時間稼動の工場はいつでも食事、風呂が準備されており、時間を気にする必要もない。充実した練習を支える恵まれた環境。「日紡貝塚」が国内無敵の強さを誇るまで、時間はかからなかった。(つづく=敬称略)【近間康隆】

◆大松博文(だいまつ・ひろふみ) 1921年(大10)2月12日、香川県生まれ。坂出商3年でバレーボールを始め、関学大から41年日紡入社。53年に日紡貝塚監督に就任する。「鬼の大松」と呼ばれる猛練習で62年世界選手権優勝、64年東京五輪では金メダルに導く。監督を辞任した65年には周恩来氏の招きで中国女子バレーチームを指導。68年参議院選挙に当選した。78年11月24日、指導先の岡山県井原市で心筋梗塞(こうそく)により57歳で死去。00年、アメリカのバレーボール殿堂入りを果たした。

【魔女が生まれた海外遠征/ニチボー貝塚バレーボール部(3)】はこちら>>