兵藤(旧姓前畑)秀子さん(77)は1936年(昭11)のベルリン五輪女子200メートル平泳ぎで優勝した日本人女性初の金メダリストです。NHK河西三省(かさい・さんせい)アナウンサーの「前畑がんばれ!」のラジオ中継の実況に日本中がくぎ付けになってから半世紀が過ぎましたが、兵藤さんは喜寿を迎えた今も「やろうと一度決めたら、最後までやり通しなさい」と訴えます。

――ベルリン五輪のことは今でも脳裏に焼き付いていますか

「隣のコースのゲネンゲル選手(独)とのデッドヒートは忘れられません。ゴールしたあとも本当に勝ったのか、全くわからなくて。水から上がったあと場内アナウンスで1着を知らされた時は涙がワーッとこぼれてきました。その4年前のロサンゼルス五輪の時は10分の1秒で2着に敗れたでしょ。日本に帰ってきたら、“お前は負けたじゃないか。どうしてあと10分の1秒頑張らなかったのか”と言われて、それは悔しい思いをしました。だから、ベルリンに出発する時は、負けたら日本に帰れないと。負けたら死んでおわびしようとまで思いつめていました」

――当時の五輪選手のプレッシャーは大変なものですね

「周りからは“死んでも勝ってこい”と言われました。選手全員がベルリンに行って日章旗を揚げることだけを考えていました。私はロスで負けてから4年間歯を食いしばって頑張りました。毎日朝5時に起きて7000メートル泳ぎ、授業を終えたあと午後3時半から7000メートル、そして夜も7000メートル。一日2万メートル以上です。夜9時半からは飛び込みの練習です。10分の1秒でも速くなろうとそれは必死でした。足の裏が切れても、包帯を巻いて続けました。自分でたてたスケジュールを完全にやり遂げました」

――その強い意志を支えたものは何ですか

「“自分が好きで始めた道なのだから、最後までやり通しなさい”と母親に言われたことは忘れることはできません。振り返ると、自分ながらよくやったなと思っています。練習中に疲れて休みたいと思っても、自分に言い聞かすんです。“プールサイドでゆっくり休む時間などないぞ。休みたいならプールの中を歩け”“何百回、何千回泣いてもいいけど、水の中で汗を流して練習しなさい”と。寝床で弱気の虫が出てきても、何を言ってるかと抑えつけるんです」

――水泳を通して学んだことはその後の人生においても道しるべになりましたか

「水泳一本で歩いてきた十分な価値がありました。不屈の精神が学べました。両親を早く亡くし、水泳をやめなくてはと思った時も、周囲の皆さんに支えられて続けられました。やり抜けば、きっと楽しいことが待っている。五輪出場でこのことを身をもって体験しました。以来、これが生きていく上で私の信念のようになりました。最愛の夫が、まだ50歳の若さで急死し、2人の子供と取り残された悲しみに暮れていたときも、病で倒れたときも、私が立ち直ることができたのもそのおかげです」【聞き手 新村明】

◆兵藤秀子(ひょうどう・ひでこ)旧姓前畑秀子。1914年(大3)5月20日、和歌山県橋本町(現橋本市)に生まれる。32年(昭7)、18歳でロサンゼルス五輪に参加し、競泳女子200メートル平泳ぎで銀メダル。36年ベルリン五輪に再び200メートル平泳ぎに出場し3分3秒6で優勝した。NHKの河西三省アナウンサーの「前畑がんばれ!」の名実況に日本国民は熱狂。口にされた「頑張れ」の数は24度。レース後には「勝った」が15回繰り返された。37年に正彦氏(59年死去)と結婚。椙山女学園職員、瑞穂SSのコーチを経て、76年に名古屋市で日本初の「ママさん水泳教室」を開設した。81年に五輪功労章を受章し、水泳の殿堂入り。90年(平2)には女子スポーツ界初の文化功労者に選ばれる。95年2月24日、急性腎(じん)不全のため死去。

(1991年6月27日付日刊スポーツ紙面より)