1972年札幌冬季オリンピック(五輪)スキー・ジャンプ金メダリストの笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが23日、亡くなった。日本スキー連盟(SAJ)が26日に発表した。

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忘れられない笑顔がある。98年2月17日。長野五輪ジャンプ団体で金メダルを獲得したこの日、選手も観客も興奮していた。記者会見場へ向かう時、ジャッジタワーから降りてくる当時飛型審判員の笠谷さんにダメ元で声をかけた。「お話を聞かせてもらえませんか」。すると、笑顔で返してくれた。「おう! いいぞ! あとで声かけてくれや」。驚いた。当時ジャンプ担当8年目。笠谷さんから選手に関するコメントをいただけた経験はなかったからだ。

「学に聞け」。いつも同じ言葉を返された。学とは、当時ヘッドコーチだった小野学氏(故人)。選手のことを聞きたいならコーチに。当たり前といえば当たり前だが、記者にしてみれば、笠谷さんの言葉は記事の何より強い裏付け要素になる。そんな思惑は、いつも肩すかしを食らった。

選手からは、違う笠谷さん像を聞いていた。94年リレハンメル五輪後に不振に陥っていた原田雅彦が、日本勢のメダルラッシュに沸いた95年世界選手権でかけられた言葉は「おまえのおかげだ」だった。「おまえが先駆けてV字を取り入れて結果を出してくれたから今があるんだ」。難聴のハンディを持つ高橋竜二が、98年STV杯でジャンプ人生16年目で初優勝する直前には「そろそろ竜が勝つころだ」と励ました。

当時は、笠谷さんが日本で唯一無二の冬季五輪金メダリスト。自分の言葉の重みを知っていた。だから、極端に口が重かった。72年札幌五輪で、報道の渦にのみ込まれた経験もある。コメントが独り歩きする怖さを知っていた。

白馬で見せてくれた笑みは、そんな呪縛から解放されたからなのだろう。自らも経験した自国開催の重圧下で金2、銀1、銅1のメダルをつかんだ後輩たち。笑顔の笠谷さんを取材できたとき、やっとジャンプ記者になれたと思った。【阿部政信 日刊スポーツOB】