日本女子マラソンの草分け的存在だった永田(旧姓佐々木)七恵さんが、27日午前に亡くなっていたことが29日、分かった。享年53歳。葬儀・告別式は近親者のみで行った。関係者によると、2年ほど前から直腸がんの治療を受けていた。粘り強い走りから「おしん走法」と形容される努力家で、女子マラソンが五輪で初めて行われた84年ロサンゼルス五輪代表。五輪後に結婚し、85年に引退した。その後はエスビー食品陸上部のコーチや顧問を務めた。

 92年バルセロナ大会から五輪4大会連続でメダルを獲得し、王国となった日本女子マラソン界のパイオニアが、早すぎる最期を迎えた。永田さんは85年に29歳で引退後、競技から離れ、91年からエスビー食品でコーチ、96年から顧問を務めたが、裏方に徹していた。現役時代ライバルだった増田明美さんは「引退後はメディアにも出ず、陸上界の山口百恵さん的な生き方をしていた。人生の長距離ランナーとしても美しかった」と悲しんだ。

 誰もが認める努力家だった。日体大までは中距離選手として活躍。卒業後は地元岩手県の高校教員をしながら、79年の第1回東京国際女子でマラソンに初挑戦した。だが3時間7分20秒で26位と振るわなかった。そこで82年、瀬古利彦氏を世界のトップ選手に育てた名伯楽の故中村清氏の指導を受けるため、教員をやめて実業団の強豪エスビー食品入り。翌83年の第5回東京国際女子では日本人として初優勝。タイムは、第1回よりも約30分も速い、2時間37分9秒になっていた。

 中村氏は「天才は有限、努力は無限」と、永田さんを評したことがある。太りやすい体質の永田さんは食生活から改善に努め、猛練習を積んだ。外国選手に食い下がる粘り強い走りは、当時のテレビドラマにちなみ「おしん走法」と呼ばれた。ロサンゼルス五輪では19位に終わったが、引退レースで自己ベストを出したところに真骨頂があった。

 常に全力で努力すれば報われることを後進に伝えた。92年銀、96年銅と五輪で2大会連続メダルを獲得した有森裕子さんは「目標にしながら後を追ったところがある」と振り返った。永田さんの精神が、シドニー、アテネ両五輪での金メダルにつながったといっても過言ではない。