打った瞬間に鳥肌が立った。9日の広島戦の12回。引き分けの空気が漂う中、一振りで試合を決めたのは大松尚逸内野手(34)だった。カウント2-1からの4球目。124キロのスライダーを完璧にとらえた。一瞬で本塁打と分かる大きな放物線は総立ちのヤクルトファンが待つ右翼スタンドへと飛び込んだ。劇的なサヨナラ弾。「ホームベースに行く瞬間に泣きそうなくらいうれしかったです」とヒーローは本塁を踏むともみくちゃになり、目を潤ませた。

 右アキレスけん断裂からの復活。16年5月に故障し、縫合手術してから約1年後、大きな仕事をやってのけた。文字にすれば簡単なことだが、相当な苦難があったと分かる。記者も楽天担当だった15年4月に断裂。プロ野球選手と新聞記者が同じ土俵で語るなと怒られそうだが、自分の体験を少し話したい。

 まず断裂の瞬間。痛みはそこまでではない。自分は運動中に走りだそうとした瞬間に「バチン!」と右足首に破裂音があった。まるで後ろからボールを思いっきり当てられたような衝撃。その場で転がり、倒れ込む。なんだ? と思い後ろを見ても誰もいない。その瞬間に分かる。「あ、切れた」と。目に入るのはコントロールが効かずにぶらーんと垂れ下がる足首。顔面蒼白(そうはく)で会社に電話し、「アキレスけん、切れました」と報告。ちょっぴり怒られながら当面の休職となると、すぐさま治療の選択をせまられた。

 現在の治療法としてメスを入れずに患部を固定する保存療法と縫合手術がある。保存療法と手術の差は現在では大きくはないとされているらしいが、全治に多少の差が出るとのこと。古いゴムひもが切れた断面を想像してほしい。何本かの繊維がそば立って、ムーミンのニョロニョロのように並んでいる。保存療法はニョロニョロが勝手にくっつくのを待ちながらリハビリを行うが、手術は1本1本を縫い合わせるために確実という説明だった。自分の場合は負傷の状況と照らし合わせて早く治り、再断裂の確率も低くなるということから手術を選択した。

 手術当日。局所麻酔での執刀だったが、まず麻酔が痛い。思わず「オウフ!」と意味不明な言葉を出してしまった。パカーンと右足首を開き、縫合。アキレスけんは太もも裏の筋肉と連動しているため、縫い合わせるたびにゴムのように足の裏の筋肉全体が引っ張られる。これが痛い。約1時間半の間、早く手術が終われと願い続けて無事に終了。ホッとした後からが苦痛の日々が始まった。

 とにかくヒマなのだ。体は元気だが、動くことができない。車いすか松葉づえ。ベッドに横たわり天井を見つめる日々。大松も術後1週間せずに退院したが、自分も耐えきれず2週間の予定を早めて1週間で退院した。早く職場に戻らないといけないという焦燥感と申し訳なさが募るが、動けなければどうしようもない。嫌な考えがぐるぐると回る。大松も「雨の日は外に出られないし、ストレスがたまる。なったことがある人が少ないケガだから聞ける人がいないし」と振り返るように、精神がズンと落ち込む。

 そこからリハビリが始まる。手術後のアキレスけんは2枚の布を重ねるように縫い合わせているため、左足よりも短くなっている。そのため足首を90度に曲げることができない。つま先をピンと伸ばした状態から徐々に角度をつけて、90度にする。自分は厚底のスキーブーツのようなものを履いて、日常生活を送りながらアキレスけんの角度を戻していった。

 最初は女性のピンヒールのようにかかとだけ高い厚底が、1週間ごとに低くなっていく。焦れば再断裂の可能性があるため、衝撃を与えないように、転ばないように、細心の注意を払う。足首の角度が90度に戻り素足で歩行が出来るようになったのは約6週間後。ようやくの職場復帰となった。

 痛み、焦り、不安。多くの故障原稿を書いてきたが、自分が体験してみて、初めてケガの苦しみが分かった。ましてやプロ野球選手は1つの故障で自身の選手生命が脅かされ、クビになる可能性だってある。大松はロッテを戦力外となったが、不屈の心でヤクルトへのテスト入団をつかんだ。時には涙を流しながらも、つらいリハビリを耐え抜いていた。サヨナラ弾を打った直後に「1年前は正直、想像は出来なかったですけど、いつかこういう日が来ると信じてリハビリを続けてきた」と言った。再び1軍の打席に立ち、本塁打を打つ。まさに想像を絶することだった。お立ち台に立つ姿は本当に格好良かった。【ヤクルト担当=島根純】