さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第13弾は伝説の名投手、嶋清一さんです。

 嶋さんは海草中(和歌山)5年生だった1939年(昭14)夏に快挙を達成し、全国の頂点に立ちました。5試合連続完封。しかも、準決勝と決勝で2試合連続ノーヒットノーランを達成しました。

 今から80年近くも前の大会で光り輝いた嶋さんは、どんな方だったのでしょうか。

 そして、悲しくも戦争で嶋さんは24歳で亡くなりました。若人が抱いた夢を諦めざる得ない時代、描いた将来を歩めなかった時代…。いかほどの無念の思いだったのでしょうか。

 嶋さんの青春時代を9回の連載でお届けします。8月12日から20日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 うちの父は、甲子園で投げる海草中・嶋清一を見ている。幼いころ、年長の友人に「きょうは嶋が投げるから」と誘われ、甲子園に見に行った。父の記憶に残るのは、夏の暑さとスタンドを埋めた人、また人と、マウンドにいた眼鏡の左投手だ。

 「『懸河のドロップ』って言われてたのかな。すごい変化球を投げてたわ」と、遠い日に見た嶋のことを教えてくれた。

 自分にはそんなイメージがない。98年夏の甲子園決勝で横浜・松坂大輔の無安打無得点試合を取材したとき「海草中・嶋清一以来の快記録」とは、書いた。だが生々しいイメージは、どこにもない。そんな自分が、戦火に散った伝説の大投手をどう掘り起こしていけるのか。まさに暗中模索だった。

 だが、思い出を語る人たちの熱さの中で、嶋さんは今も生きていた。

 詳細は12日からの紙面に記しているが、熱心に取材を続け、評伝を書き上げた山本暢俊さん、所有する貴重な写真や資料で山本さんの執筆を手助けした松本五十雄さん、生前の嶋さんを知る橋爪喜久子さん、嶋さんの親友だった父からいくつもの思い出を託された古角俊行さんらだ。

 山本さんの夢枕に嶋さんが立った話も聞いた。そのときは、うっすらと鳥肌が立った。松本さんは「投げるだけやない。打ってもすごい人だったんですよ」と念を押された。橋爪さんは、嶋さんの足の温かさを今なお覚えていた。

 古角さんの父、俊郎氏が健在だったなら、どんな言葉で亡き盟友を語ったのだろうか。真っ白なシャツ姿で背筋をピンと伸ばし、甲子園の通路に立っていた古角氏の姿がよみがえった。【堀まどか】