ヤクルトを戦力外になった加藤誉昭さん(たかあき=55)は、平和島競艇場に通い始めた。定職は探さなかった。


 加藤さん(以下、敬称略) 中山大三郎さんって作曲家を知っていますか? 同じ都城出身で、プロ入りしてから応援していただいていました。食事に誘ってもらい、叱咤(しった)激励してくれた。中山さんのご縁で、選手時代に「競艇界の百恵ちゃん」を見に行ったことがありました。その時は1度だけでしたが、そこで競艇を知った。プロ最後の年も、戸田のボートレースに行っていました。もう「2軍ズレ」していましたからね。


鶏の刺し身を持つ加藤さん
鶏の刺し身を持つ加藤さん

 中山大三郎さんは著名な作詞、作曲家である。島倉千代子の「人生いろいろ」を作曲、天童よしみの「珍島物語」を作詞作曲するなど、代表作は数多い。

 また「競艇界の百恵ちゃん」とは、1980年代に活躍した鈴木弓子選手(旧姓・田中)を指す。百恵ちゃんとは、もちろん山口百恵である。


 加藤 当時は入場料が50円だったかな。入れば1日いられるでしょう。すぐに仲間ができた。「お兄ちゃん、どこから来たの?」とか声かけられてね。予想の先生役がいるんですよ。蒲田の電気屋さんがリーダーで、いい人だった。誰かが当たると、みんなで場内にある飲み屋へ行ってごちそうしてもらう。楽しかったね。


 前年までプロ野球選手だった。競艇仲間に前歴は打ち明けたのか。


 加藤 いや、そういうの抜きにした関係ですよ。別にギャンブルとか、どうでもいい。居場所が欲しかったんでしょう。さびしさをまぎらわせていた。


 故郷の両親から電話がかかってきた。「仕事はどうしている?」「世の中、みんな働いているんだよ」「いい年して何やってるんだ?」。心配は伝わった。


 加藤 当時は「プータロー」や「フリーター」といった言葉もなかったからね。でも、焦って仕事に就きたくなかった。世の中を経験した方がいいと思ってね。競艇場…たまに大井競馬場にも行って、場末な社会を勉強しました。


 しかし金は続かなかった。現役時代に積み立てていた約800万円は、1年間の放浪生活で使い果たしてしまった。


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 アルバイトの求人雑誌を見て、横浜駅に近い酒の問屋に応募した。


 加藤 なぜ横浜かって言うと、朝、満員電車に乗りたくない。蒲田から下り電車なら、それほど混んでいないでしょう。朝9時から夕方の6時まで、配送の助手をしました。


 ビールや酒など、重い荷物を大量に運び入れる。時間の制約もあって厳しい仕事だった。1日で辞めていくアルバイトも多かった。定着率の悪い仕事だった。


 加藤 でも、私はまったくきついと感じなかった。トレーニングと思ってやっていたからね。例えばビールのたるを20個、階段で運び入れる。2人1組なんで、相手と競争していましたよ。1人10個でしょう。「1度に2個持てば5回で終わるぞ」って。疲れたら「サーバーの調子はどうかな?」なんて言って、ちょっと飲んだりね。


 前向きに臨む姿勢が評価されたのだろう。専務から「君みたいなバイトは珍しい。社員にならないか」と誘われた。断ると、次は社長からも声をかけられた。「月に40万円と、ボーナスも2回出す」と好条件を出された。


 加藤 ありがたい話なんですけどね。私としたら、食いつないでいるだけで、ずっとやるつもりもなかった。ずっと断るのも悪いと思って、辞めました。


店名と同じ焼酎を持つ加藤さん
店名と同じ焼酎を持つ加藤さん

 知人の紹介で出版社に務めた。社員になって営業をしているとき、ベースボールマガジン社の幹部に出会った。元プロ野球選手だと告げると「そうか。じゃあ、うちに来たらどうだ」と誘ってもらった。


 加藤 最初は販売、次に広告。そして編集企画もやりました。少年野球向けの「ヒットエンドラン」という雑誌の企画を出して、それを立ち上げる担当になりました。


 「ヒットエンドラン」は昨年3月号まで発行された。現在は休刊状態で、不定期の発刊になっている。

 新雑誌の立ち上げで多忙になった時期、故郷の父が倒れた。宮崎に戻り、不眠不休で看病した。


 加藤 父が落ち着いて、東京に戻ろうと飛行機に乗りました。席に座ると、私の体調がおかしくなった。胸に穴が開いたと思ったぐらいで、「もう死にそう」と思って飛行機を下ろしてもらった。仕事と看病で、ずっと眠れていなかった。雑誌を担当するプレッシャー、父が倒れたショック、疲れ… 後で分かりましたが、パニック障害でした。うつ状態になり、抗うつ剤を飲みました。


 休職した後に退職に至った。


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 宮崎に戻り、知人の協力を得て野球塾を始めた。農業用のビニールハウス内を整備して、練習できるようにした。「ジュニアベースボールクリニック 野球塾ARCH(アーチ)」という、個人レッスンの塾とした。


 加藤 チームではなく、個人で教えてもらいたいという声が多かったので。1期生に中日の柳(裕也)がいます。小学6年生でした。中学でも部活で軟式をするというが、シニアを勧めました。とても能力が高い選手でした。


 日中は知人が経営するスーパーで事務を担当し、夕方から野球を教える。そんな生活が8年に及んだ。


 加藤 野球に関われるのは本当にうれしかった。教えた子で母校に進んだ選手もいるし、甲子園に出た選手もいます。


 2度目の結婚をし、50歳にして子供ができた。加藤さんを取り巻く環境が変わり、東京に戻ろうと決めた。


 加藤 最初は知人の会社に就職しましたが、よく考えればサラリーマンじゃダメですよね。子供が20歳になるとき、私は70歳ですから。家族を養っていくには自営業かなと。妻がソムリエの資格を持っていますし、将来的にお店を出そうと考えました。そこで修業を始めたんです。


 最初は「ちゃんこ店」に勤めたが、次第に考えがまとまっていった。


 加藤 炭焼きで地鶏を出す郷土料理の店がやりたい。そう思って今の「薩摩地鶏 きばいやんせ」に来ました。ベーマガで働いていた頃、客として来ていました。いい店だなと思っていた。こういう店にしたいと思っています。


 炭焼きにも理由がある。パニック障害でうつ状態になった頃、友人に誘われて和歌山で静養した。炭焼きの体験もした。


 加藤 紀州備長炭です。携帯の電波も届かないところで体験して、すっかりはまってしまった。それから何度も行っています。その炭を使って料理を出したいんです。


 修業のかたわら、野球にも関わっている。「きばいやんせ」に近い神宮のバッティングセンターを使って、「Kゴリちゃん ホームランレッスン」という野球指導をしている。


 加藤 お店に出ていて「野球を教えて」と言われることも多い。私も野球には関わりたいですからね。お店にチラシを貼って、依頼されたら教えています。


 レッスンで使うTシャツを作成する過程で、おもしろいワッペンに出会った。ワッペンやししゅう、スポーツマークを専門とする「カズマーク」という会社が独自開発した接着剤を使っており、通常のワッペンと同様にアイロンでも使用できるが、アイロンなしでも着脱できる。


 加藤 こういう技術もあるんだなと驚きました。ほら、おもしろいでしょう。


加藤さんが商品企画した「二刀流ナンバーワッペン」
加藤さんが商品企画した「二刀流ナンバーワッペン」

 試してみると、携帯電話などに簡単に貼れ、簡単にはがすこともできる。今後は加藤さんが商品企画した野球向けのワッペンも発売予定される。使用方法が2通りあることから、「二刀流ナンバーワッペン」と名付けられ、番号と「必勝」という文字のワッペンがセットになる。今夏の甲子園100回大会に合わせて製造、販売の準備を進めている。


 加藤 これはまさに「二刀流」だとひらめきました。球児のお母さんや、彼女が大会前にお守りを作るでしょう。これ、お守りになると思いますよ。Tシャツで協力してもらっている会社の技術を使った、他にないものですから、ぜひ宣伝してください。大リーグで衝撃を与えた大谷選手のように、私もこの「二刀流」で新たな挑戦をしてみたいと思っています。


 プロ野球界を離れてからの30年間を一気に語ってもらった。

 

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 後日、南青山にある「霧島地鶏 きばいやんせ」を訪れた。

 加藤さんの勧めで、薩摩地鶏のもも焼き、鶏の刺し身盛り合わせ、きびなご刺しを注文した。

 最初はビール、その後は芋焼酎の水割りである。

 加藤さんが接客の合間にそばに来て、話し相手になってくれた。高校野球の話、プロ野球の話、ヤクルトの話をしながら杯を重ねていった。他の客とも同様にさまざまな話題で盛り上がっていたから、店の魅力の1つなのだろう。

 気付くと、店は満席になっていた。【飯島智則】