「それでどうだったの? 泣いたのか?」などと知り合いから遠慮なく質問されるので、自身イレギュラーな展開ですが、前回コラムの続きから始めます。
家族への個人的な思いと25年ぶり優勝を決めた緒方孝市監督に思いをはせて「決まったら泣くかも…」と書きました。
結論から言えば、優勝が決定のとき、目元は少し緩んだと思いますが、泣きませんでした。
本当のところを言えば、あの原稿を書いていた時点ですでに泣いていた。日刊スポーツのサイトにアップされた直後に「やっぱりあまりに私的かな」と反省したのだけど、その後「読んだ。よかった」「あんな“ねごと”があるか。泣いたわ」などと感想をいただき、なにかしら、自分の思いが届いたのかなと感じれば、また涙が出てくるという日々でした。
要するに優勝決定までに、結構、泣いたので9月10日の東京ドームで緒方監督と握手したときも、お互いニヤニヤしていました。
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それにしても2000年のシーズン。緒方氏をはじめ、広島ナインには感謝しています。妻のアクシデントのため1年足らずで大阪に戻ることになり、金本知憲氏も前田智徳氏も佐々岡真司氏も、事情を知って「そうですか。大変ですね。頑張ってください」と、思わぬ形で担当を外れることになったことを惜しみ、神妙な表情でいたわってくれました。
監督は達川光男氏。この人もなかなかのサムライでした。16年前の話です。
東京ドームの巨人戦、記憶が正しければ2試合連続でサヨナラ本塁打を浴びての連敗でした。
試合後の監督会見で私は無遠慮に「同じ負け方ですね」と聞いたのです。すると監督は「高原クン、あんた、そんなん言うんなら、もうワシゃ、しゃべらんよ!」と言って、会見を打ち切ってしまった。
他社の記者に「申し訳ない」と謝りましたが、みんなも「どうせ誰かが聞くことだから仕方ない」という話で終わったのでした。
さて翌日。私は所用があって行かなかったのですが記者連中は都内の宿舎ホテルのロビーに昼間から集まります。そこへ達川監督は2度も降りてきて、私を捜していたと言います。
東京ドームでそれを知らされた私は「きのうの続きをしたいのかな?」と思っていた。するとはたしてベンチから出てきた監督に手招きで呼ばれました。他者の記者が心配そうに見守る中、歩み寄りました。
「こっちへ行こ」。そう言われて入ったのは東京ドームの三塁側ベンチ裏。素振りのできる広いスペースがあり、しかもドアを締めれば密室になります。
そこで二人きり。緊張する私に監督は言いました。
「きのうはワシが悪かった。新聞記者なら聞いて当然よ。すまん」。そう頭を下げるのです。
こちらは驚いて恐縮しながら「いえ。ボクこそ、ぶしつけな質問の仕方で失礼しました」とあやまり、一件落着となりました。
ところが、これで終わらなかったのです。
直後に監督は目配せをしてから、こんな感じで大声を出すのです。
「お前! 生意気な! 何をえらそうに言うとるのか! 何様じゃ!」
一瞬、ビックリしましたが、すぐに意図を理解したこちらも同じように大声を返しました。
「何言うとんねん! おっさん! そのぐらいでガタガタ言うな!」
しばらく沈黙してから「もう、ええじゃろ…」と言って、ドアを開けたのです。
入り口にはケンカをしていると思いこんだ他者の記者、関係者が鈴なりに集まり、心配そうに様子をうかがっていました。
ちゃめっ気のある達川氏ならではの“ドッキリ”だったというわけです。
「大丈夫、大丈夫」という私に、みんなは「いいかげんにしろ」とホッとした顔で怒ったものです。
主力の故障など戦力が整わず、このシーズン限りで監督辞任となった達川氏ですが、私の中では強い記憶があります。
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先日、マツダスタジアムで達川氏とお茶を飲みながら、少し話をする機会がありました。
あんな粋なことをしてくれ、明るい人ですが中日コーチを務めていた14年の暮れに奥様に先立たれています。広島の優勝を喜ぶと同時に、自然とその話になりました。
「あのときは高原クンのことを想い出してな。ウチは子どもが大きくなってたけど、あんたとこはみんな小さかったもんな。よう頑張ったわな…」
そう言われ、また泣いてしまいました。
結局、今回も私的な話になってしまいました。申し訳ありません。でも、やっぱり、広島はいいチームです。