昨季限りでソフトバンクを退団した松中信彦内野手(42)が現役を引退することが2月29日、分かった。19年間のプロ野球人生にピリオドを打つことを決意。今日1日、引退会見を行う。昨年10月に退団後、NPBでの現役続行を希望し、他球団からのオファーや入団テストの機会を待っていたが、自ら期限としていた2月末まで話がなかった。

 ホークスの一時代を築いてきた松中が、現役引退を決断した。この日、取材に応じた松中は、すがすがしい表情で、胸の内を語った。

 「この4カ月は最後の挑戦だった。自分の中でしっかり期限を決めて、わずかな可能性の中、悔いのないトレーニングをしたかった。精いっぱい、42歳なりに全力でできた。悔いはない」

 出場機会を求め、昨年10月にソフトバンクを退団。NPB他球団からのオファーを待った。例年通りグアム自主トレで体を鍛え、同時に他球団に自らを売り込む電話をかけ、入団テストも志願。だが、2月末までに応じる球団はなく、バットを置くことを決意した。

 「10月でやめていたら悔いは残っていたと思うけど、今は未練も後悔もないし、充実感でいっぱい。30代なら(支配下選手登録期限の)7月31日まで待つが、実戦から離れれば離れるほど目(動体視力)が衰える。先に延ばすほど不安が出てくる。人間、衰えは絶対にあるし、自分の中でうそをつきたくなかった」

 96年アトランタ五輪で4番を務め銀メダル獲得。同年、逆指名でダイエー入団。99年にレギュラーをつかみ、弱小チームを3度、優勝に導いた。04年には平成でこれまで唯一となる3冠王を獲得。小久保、井口、城島らとともに常勝軍団を築き上げた。通算本塁打は352本。内角打ちのうまさは球界屈指だった。

 「最初、弱かった頃にホークスに入って、強くなって、常勝軍団になった。ここまで育てていただいて、19年間ユニホームを着られたことは本当にありがたい。ファンの方にも感謝の気持ちしかない」。お世話になった王球団会長にもこの日、電話で感謝の思いを伝えたという。

 今後は指導者など、野球に携わる仕事を考えているという。「次の目標に向けて、いろんな勉強をしてみたい。中途半端では教えられないので、引き出しをもっと増やしたい」。

 ここ数年は出番が減っていたが、それでも代打で名前がコールされるたびに大歓声を受けていた。ファンに愛され続けた男は、惜しまれながら、19年間のプロ野球人生に幕を下ろした。

 <松中 一問一答>

 -引退の決め手になったのは

 松中 2月19日に(古巣の社会人かずさマジックに同行する形で)生目の杜を訪れ、打撃練習をした。他球団の方もいる中でまだ動ける自分を見せれば話が来るかもしれないと思ったが、話がなかったことで引退を決意した。

 -入団テスト要望の電話をかけたのは

 松中 去年の退団後、関係者を通じ、連絡先を知らせてもいいと言ってもらえたのが7球団あった。そのうち、ベテラン勢が引退した中日以外の6球団に電話させてもらった。

 -NPBにこだわったのは

 松中 NPB、育成、海外、独立リーグという選択肢があったが、NPBで最後の勝負をしたかった。この2、3年、2軍生活が長い中で、自分は1軍に行くための準備をしなきゃいけない。でも、若い子の芽もつぶしちゃいけないという葛藤があった。だから育成は考えていなかった。BCリーグの武蔵から「NPBからのオファーを待つ間、うちでどうですか」と話があったが、NPBでという気持ちだった。

 -19年間の思い出は

 松中 一番は11年(11月4日)のクライマックスシリーズのファイナルステージで西武牧田から打った代打満塁本塁打。何年か分の思いが爆発した。投手では(松坂)大輔との対戦が一番楽しかった。(05年に放った)1試合3本塁打は忘れられない。

 -今後は

 松中 ベーブ・ルースがプレーしていたニューヨークに行きたいし、異業種で成功を収めている人たちの話も聞きたい。野球しかしてこなかったので、野球に携わる仕事がしたい。1度は指導者にもなりたい。

 ◆松中信彦(まつなか・のぶひこ)1973年(昭48)12月26日、熊本県生まれ。八代第一-新日鉄君津。96年アトランタ五輪では決勝のキューバ戦で同点満塁本塁打を放つなど銀メダル。同年ドラフト2位でダイエー入団。3年目の99年にレギュラーに定着し、04年に史上7人目の3冠王。06年WBCでは王監督の日本代表で4番を打ち世界一。ベストナイン5度(00、03~06年)ゴールデングラブ賞1度(04年)。オールスター出場9度。183センチ、97キロ。左投げ左打ち。家族は夫人と3男。