91年のチームも、いいチームだった。選手同士の距離が近く、遠征の試合後、それぞれに連れだって食事に出かけた。宿舎に残っているような選手は皆無だった。個性の強い投手王国のチーム。「コントロールの北別府」。「7色の変化球の大野」。そして「ノーコンの川口」。それぞれが能力を発揮した。「僕はノーコンって知られていたから、死球を当てても怒られなかった。北別府(学)さんが当てると、みんなすごく怒るのにね」。川口は懐かしそうに振り返った。

 きつい練習に裏打ちされたチームだった。キャンプではベージュのユニホームのズボンが、赤く染まった。「当時はみんな赤いグラブを使っていて、その染料が付いちゃうんだよね」。2時間かけてアップし、100球を超えてからがピッチングだという教えのもと、連日の投げ込み。キャンプ期間だけで2500球はゆうに投げた。練習を苦に思う選手は試合に出られなかったし、いなかった。

 三篠の選手寮に住んでいた当時、門限は午後10時半だったが、1軍選手だけ、それよりも遅い時間に食事に行くことを黙認されていた。食事をして深夜2時過ぎに帰ったある日、玄関脇のミラールームに、汗だくでバットを振る高橋慶彦がいた。「食事から帰って来て、ひらめいたものがあったんだろうね。翌朝もバットを振っていた。そういう伝統を正田(耕三)とかが引き継いだんだと思う」。練習の虫だらけのチームだった。

 よく練習し、よく遊んだ。そして、よく通報された。広島のスナックで津田恒実と飲んだ翌朝「昨日の夜、2時ごろに川口と津田を見かけたぞ」と球団に電話がかかってくる。チームを思う市民の愛情だった。ファンの層が今とは違った。「おっちゃんばっかりだったもんね。負けてるとやじられた。今はカープ女子。かわいい子がいっぱいでいいよね」。当時は巨人の堀内恒夫が紙コップに入った小便を投げつけられるという“事件”まであった。

 そんな市民球場だったが、特性は川口にピッタリだった。スラリとした長身で体脂肪率が10%以下。極端に寒がりな体質だったが、暑さにはめっぽう強かった。「瀬戸の夕凪(なぎ)って言って、夕方、市民球場の風がピタッと止まるんだ。それが気持ちよくってね」。周囲が暑苦しさにもだえるような気候こそ、川口は大好きだった。夏場に勝ち星を稼ぎ、91年も7月中旬で首位と7・5差の4位から、逆転優勝に導いた。

 家族の事情もありFAで巨人に移籍したが、それほど愛し、愛された広島を嫌いになるはずがない。「14年間お世話になって、骨を埋めるつもりだった。巨人でコーチをやってた時も、いろんな思いがあった。今年は新井、黒田という軸が、いい影響を及ぼしている。広島の町が25年ぶりに元気なのはいいことだね」。川口の言葉には、広島への感謝の気持ちがあふれていた。(敬称略)【竹内智信】

 ◆川口和久(かわぐち・かずひさ)1959年(昭34)7月8日、鳥取市生まれ。鳥取城北からデュプロを経て80年ドラフト1位で広島入団。86年から6年連続2ケタ勝利を挙げ、91年には最多奪三振のタイトルを獲得。巨人戦通算33勝31敗で巨人キラーと呼ばれた。94年オフにFAで巨人に移籍。11年から14年までは巨人の投手総合コーチを務めた。通算435試合139勝135敗4セーブ。左投げ両打ち。