史上初となる2度の春夏連覇を達成するなど21世紀の高校野球界をけん引する大阪桐蔭が3年ぶりに夏の甲子園に帰ってきた。51歳にして名将の評価を得る西谷浩一監督は、プロ野球界にも多くの好選手を輩出し、屈指の指導力を発揮している。18年春夏連覇に「二刀流」で貢献した中日・根尾昂内野手(21)が指揮官との3年間を振り返った。【磯綾乃】(後編は無料会員登録で読むことができます)

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根尾は校内で西谷監督と会った記憶がない。社会科教諭としても、毎日生徒を指導していたはずなのに。それほど、グラウンドにいる時の印象が強すぎた。

「もう本当に毎日のようにグラウンドに来られて、本当に最後までずーっと選手の動きを目で追っていました」

同じ白い練習着姿で鍛錬を積む大阪桐蔭の選手たち。その中の1人がランニングシューズの色を変えただけでも、西谷監督は見逃さない。

「新しい靴買ったとかもすぐ気づいて、『おーええやんけー』って言ってくださる。めちゃくちゃ選手のことを見てやられてるんだなというのも感じました」

根尾の「二刀流」も、そんなグラウンドで西谷監督とともに始まった。今から約6年前。初めて見た大阪桐蔭のグラウンドに、根尾は一目ぼれした。代々受け継がれる「一球同心」の教え、野球にかける選手たちの姿。その空気に心を奪われた。

投打で才能が秀でていたが、入学前からプロ入りを明確な目標にしていた根尾は「野手の方が気持ちは強いです」とはっきり伝えた。西谷監督の中にあったのは将来を見据えた「二刀流計画」だった。

根尾は元々肩肘も強く、放っておけば練習しすぎる性格。投手としては1、2年時は連投せず。3年の夏前は毎週末必ず練習試合で完投させた。ブレーキをかけながら、3年をかけて背番号「1」を背負うビジョン。最終的に3年夏は遊撃手の「6」だったが、投打でチームの中心になった。才能を最大限に生かし、成長と未来を考えた育成計画だった。

1年の夏まで根尾は投手にほぼ専念した。ブルペンでとめどなく投げていると「しっかり試合でいい状態で臨むために」と明確な理由とともに、西谷監督からストップが入ることもあった。1年秋からは野手としての練習に重点を置いた。新チームが始まる時に、西谷監督と根尾は今後について話し合っている。

「1年生の夏を迎える前に、まずこの夏はピッチャーでという話をさせていただいた。夏が終わって秋になった時、新チームが始まる時に秋からしっかりバッターの方もという話をしたのは覚えてますね」。

秋、冬を越えて、根尾が2年生になった17年。大阪桐蔭は甲子園の主役だった。センバツ優勝を果たし、そこから4季連続出場。のちに、2度目の甲子園春夏連覇を達成する根尾らの世代は「最強世代」とも呼ばれた。

ロッテ藤原、日本ハム柿木、巨人横川ら才能豊かな選手たちが揃い、最後の夏はちょうど甲子園100回大会。注目はいやがおうにも高まった。周囲の期待がふくらむ一方で、当の本人たちが「最強」を自覚することはなかった。

「僕らも西谷先生も『最強』と言われてるほどというか、『全然だめやな』っていう感じが強かった。周りだけが先走って加熱して言ってるなという感じはありました」

1学年上の先輩と紅白戦をすれば、必ずと言っていいほど負けた。1年生だけで対外試合を行った時も、圧勝した記憶はない。周囲の熱に惑わされることはなく、全員が勝利と成長だけを追い求めていた。

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