中日が4年ぶりにパ・リーグを制した。前回優勝した2006年10月11日付の日刊スポーツから<巨人3-9中日>◇06年10月10日◇東京ドーム

 中日落合博満監督(52)が泣いた。苦しんで、苦しんだ末に、東京ドームで4度歓喜に舞った。中日が10日、巨人を9-3で破り、2年ぶり7度目のリーグの優勝を決めた。マジック1で迎えた巨人戦は延長戦に突入。引き分け目前の12回表、1死満塁で福留が勝ち越し打、ウッズがこの日2本目、ダメ押しの47号満塁弾を放った。優勝を確信した落合監督は涙を流した。3年間で成績は優勝、2位、優勝。「オレ流」といわれる独自理論で「負けない野球」を確立した。21日にナゴヤドームで開幕する日本シリーズで、52年ぶり日本一に挑む。

 グラウンド中央で胴上げを待つ選手のもとへ。ベンチを出た落合監督はいつものようにゆっくり歩き、淡々とした表情をつくった。だが1歩、1歩、進むたびに目がうるんだ。もうだめだ。泣きじゃくったまま1度、2度、3度…。涙とともに4度も宙を舞った。

 延長12回、涙腺は限界に達した。福留の決勝適時打の後、ウッズが優勝を確信させる満塁弾。いつも選手に冷静な表情を見せてきた指揮官がベンチで泣いた。

 「すいません…。涙もろいので…。キャンプから3年間苦しい練習させてきて何があっても優勝しなきゃいけない。させなきゃいけない気持ちがあって…。ぐっときました。長かったです。順調に戦っては来たんですが、阪神の追い込みというのは…。球史に残る戦いだったと思います」。

 インタビューでも声はかすれた。マジック40点灯から2カ月間、苦しんだ分だけ涙が止まらなかった。

 一匹狼だった現役時代同様、監督になってもオレ流は不変だった。マスコミへの説明より選手への配慮を優先した。後援会はなし。批判も、誤解も、お構いなし。3年間、勝利だけを追求してきた。

 「野球はだれのためにやる?

 自分のためだろう?

 ファンのため、だれかのためと言う人がいるけど、それはみんなウソだ。オレはだれに好かれようとか思わないから建前は言わない。建前を言うのは政治家に任せておけばいい。でも正直なやつは嫌われるんだ。まあオレを嫌いだと言うやつがいても、そいつをオレは知らない。放っておいてくれだ!

 ハハハハッ」。

 そう開き直れる裏には、家族の存在がある。まだ無名のロッテ時代、選手寮から当時交際していた信子夫人の家に通った。ある日、どこか無欲なスラッガーに信子夫人が言った。「何か信じるものを持ちなさい。今持っているお守りとか、全部ここに出して!」。ベランダに出て2人でそれを燃やした。代わりに渡されたのが銀の円柱型ケースに入ったお守り。以来、それに願いをかけては実現させてきた。3度の三冠王も、巨人での日本一も、いつもお守りがそばにあった。

 それから26年…。今年9月20日の横浜戦(横浜)。お守りがかばんごと盗難にあった。深夜、信子夫人と東京の自宅へ戻る約40分間の車中、ほとんど口を開かなかった。ただ1つすがっていたものを失った。「あれさえ戻ってくれば…」ワラにもすがる思いだった。

 翌日の夕方、信子夫人、長男福嗣さんと映画館に出かけた。帰り際、家族で初めてプリクラを撮ることになった。こんな時いつも父はうまく笑えない。見かねた息子がいった。「じゃあ、父ちゃん。優勝って書きなよ!」-。

 「嫌われたっていい」という言葉の裏には、感情表現が下手で、野球でしか自分を出せない職人の素顔がある。それを理解してくれるのはやはり家族だった。父はペンを持った。

 代わりのお守りは持たなかった。新しいものをくれるという人の親切も断った。なぜなら自宅リビングには「優勝

 ヤッター!

 優勝」と書かれたプリクラがあった。この日もネット裏には父と一緒に涙する2人の姿があった。苦しい戦いを家族という最高の“お守り”を胸に戦い抜いた。【鈴木忠平】

 [2010年10月1日20時52分]ソーシャルブックマーク