巨人の9年連続日本一に名二塁手として貢献し、オリックスの監督を務めた土井正三(どい・しょうぞう)氏が25日午後0時24分、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去した。67歳だった。07年3月に手術を受け、入退院を繰り返していた。立大から65年に巨人入りし、不動の「2番二塁」としてベストナイン2度、ダイヤモンドグラブ賞1度獲得。王貞治ソフトバンク球団会長(69)、長嶋茂雄巨人終身名誉監督(73)の「ON」を支えるいぶし銀の活躍でファンをうならせた。現役引退後は巨人の守備走塁コーチ、オリックスの監督など指導者としても実績を残した。

 土井氏が2年半におよぶ闘病の末、静かに息を引き取った。長男の健一さんは「午前11時半ごろ意識がなくなった。最後は眠るようだった」と話した。遺体は午後4時過ぎ、入院先の都内の病院から自宅に戻った。

 07年3月5日に約15時間の膵臓がんの手術を受けた。40日間高熱が下がらない状態から、一時はリハビリが行えるまでに回復した。同年6月、巨人通算5000勝達成記念として東京ドームにV9戦士が集合した際には、入院中だった土井氏も「仲間たちともう1度グラウンドに立ちたい」という強い思いから出席。二塁の守備位置で力を振り絞り車いすから立ち上がると、ファンの大きな拍手を浴びた。

 今年8月20日に肺炎を併発し、徐々に体力が奪われていった。川上氏、長嶋氏、王氏らV9の仲間たちが次々と見舞った。話すこともままならなかったが、仲間の激励には懸命にお礼の言葉を発したという。

 常勝チームの中で「2番二塁」というポジションを確立した名手だった。入団後の初練習で打球は内野の頭を越えなかったという。「ひどいのを取ってきたな」と陰口をたたかれながら、努力でレギュラーの座を勝ち取った。172センチの小柄な体ながら、気性は激しかった。3年後輩のヤクルト高田監督は「川上監督が代打を送ったとき、ベンチ裏でドカンと音がした。灰皿だと思うけど、土井さんがバットでなぐったんだ。あれは忘れられないね」としんみり振り返った。

 オリックスの監督時代にイチロー(現マリナーズ)の才能を見抜けなかったと批判されたこともある。しかし、選手としての実力は高く評価していた。ただ積極的にボールを打ちにいくイチローは、土井氏の求める「ボール球を見極めて確実に塁に出る」という1番打者ではなかった。それが1軍から外した理由だったという。その後「あの時の反骨心が今のイチローのベースにあるのでは。その意味で、判断は良かったと思っている」と述懐していた。

 23日、病室のテレビは巨人のリーグ3連覇が映し出されていた。意識のはっきりしない中、目はしっかり開いていたという。健一さんは「どこまで分かっていたか分からないが…。優勝が決まったよ、と伝えました」と語った。古巣の新たな黄金時代到来を見届けた2日後、長い戦いを終えた。

 [2009年9月26日8時16分

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