ノムさんにも、浜風にも、すべての逆風に感謝-。阪神桧山進次郎外野手(44)が引退試合に際し、日刊スポーツに特別手記を寄せた。若くして4番を打ちながら、レギュラー剥奪のどん底に。暗黒時代をさまよった後に優勝の喜びを知った。逆境を乗り越える戦いに明け暮れた22年間。「野球とは人生」の境地にたどり着いた今、すべての苦しみに感謝した。

 22年間を振り返ると、まあ中身の濃い野球人生でした。僕よりもすごい成績を残している選手はたくさんいるけど、だれにも経験できないことをいっぱい経験させてもらった。人生において本当にいい勉強をさせてもらいました。

 もともと野球と人生を結びつける考え方はしていませんでした。若い頃は野球がどうしたらうまくなるか。それしか考えていなかった。それが壁に当たり、野球を通して人生勉強していると考えだしてから、自分が変わり始めました。

 一番大きな壁というのはやはり20代最後から30代にかけてです。(99~01年、野村監督時代)。あの頃はレギュラー剥奪みたいになって、いつもベンチで試合を見ていました。大差で負けている時、9回2死走者無しの場面で代打にいかされたりした。最初は『レギュラーで出ていた選手がそこでいってもなあ。若い選手がいったらええやん』と思っていた。相手チームもなんでこんなところで桧山出してんねんという感じだった。そこで三振して試合終了というのがよくあるパターンです。

 でもある時、吹っ切れた瞬間がありました。発想というか考え方が変わりました。野球人生においてはそこがどん底だったから。いくところまでいっていたのが逆に良かった。このまま終わったらつまらん人生になるやろ。大したことのない人間になってしまう。今、こういう思いをしているのも自分の人生にとっていい勉強をさせてもらっている。そう考えだしてから明るい兆しが見えました。

 きっかけは大嫌いだったベンチにありました。試合中、いつも野村監督が配球についてしゃべっていた。『このピッチャー、スライダー、ボール、スライダーやろ』『真っすぐ、ファウル、スライダーやろ』とか言ってました。試合に出してもらっていなかったこともあって最初は『ああ言うてるなあ』くらいにしか思っていませんでした。でも、自分も野球が好きだから投手のボールを自分で見て、耳に入ってくる野村さんの言葉と比べて『え?

 そうなん?』『俺はこっちやと思うけど』とか考えるようになった。直接話してはいないし、とても監督には寄りつけないんだけど、対抗意識というか勝手に勝負していました。それで本当に言う通りになって『なるほどな』と。

 それからは大差の場面での代打でも「わかりました!」といくようになりました。怖がらずに配球を読んでみようとか、失敗しても自分のために生かしてみようかなとか。いい結果が出たりするとうれしいし、なるほどなとなる。置かれている状況はどん底で、めちゃくちゃ厳しいんだけど、楽しさが芽生えてきた。1球を大事にしたり、四球でも今の見極め良かったなと思えた。そこから周りの状況とか気にせず、自分のためにできるようになった。ふてくされていたら、もったいない。自分の人生なんだからと。

 ある意味であの時期がなかったら、今の自分はなかったと思います。若い頃に4番を打たせてもらって、30歳になって、まあまあかなって、普通の選手で終わっていたかもしれない。若い選手がぼーんと出てきたら、すぐやめていたかもしれない。どん底を経験してない分、それをはね返すパワーがないだろうから。

 22歳で入団してからずっと阪神タイガース。重圧もありました。他のチームに比べて露出度が高いということは、ユニホームを脱いだ時も見られていると考えて行動しないといけない。自分の意図とは違う記事を書かれたりすることもあります。聞かれたことに、ひと呼吸置き、考えてから、しゃべらないとえらい目にあいます(笑い)。

 甲子園には左打者に不利な浜風も吹いています。他の球団ならば本塁打は全然違う本数が出ていたと思いますし、本塁打がアウトになるということは打率も下がるし打点もなくなる。打者にとって相当なリスクだと思います。

 でも、今、考えるとすべてが“追い風”だったとも思えます。阪神だから、注目され、有名にしてもらった。浜風のおかげで守備がうまくなった。本塁打にならないことで打撃も考えるようになった。野球人生において、たくさんの逆風があったことに感謝しています。(阪神タイガース外野手)