ロック歌手忌野清志郎さん(享年58)とゆかり深い著名人が登場する連載「5・2 七回忌に語ろう ボクと清志郎」の第2回は、俳優の竹中直人(59)です。熱烈な追っかけから友人になり、清志郎さんを映画の世界にまで引き込んだ経緯、ユーモアで温かい素顔など明かしてくれました。

 91年の監督デビュー作「無能の人」の出演は、「俺はミュージシャンだぜ」と断られたが、94年の次作「119」の音楽監督は快諾してくれた。

 竹中 撮影前には全曲をテープに入れてくれてて、ロケ現場の嵐の中で、できたての曲を聴いたな~。

 翌95年の日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。表現者としてより深く理解し合える仲になった。俳優デビュー作「お墓と離婚」も竹中の紹介だった。

 竹中 その後は僕が映画やドラマ、舞台に出るたびに「出番はないか」って連絡をくださった。

 05年の監督作「サヨナラCOLOR」出演の思い出もクスッと笑える。

 竹中 同窓会の司会者役で撮ったら、翌日の病院ロケにも来てくれた。もっと出たかったんですね。何とか患者役でもと、自前の寝間着を用意されてて。僕が「同じ人が違う役は…」と戸惑うと、今度はマスク姿に点滴や車いすまで借りてきて「これでどうだ」って。「分かりました。撮ります」ってカメラを回したけれど、編集でカット。試写後に真っ先に「あのシーンはやっぱりカットか」って言われちゃいました。

 09年の主演作「僕らのワンダフルデイズ」は、闘病前の清志郎さんと2人による企画だった。

 竹中 2人で新宿で飲んでる時にスティービー・ワンダーの「太陽があたる場所」が流れ、「オヤジバンドの話を撮らないか」って思い付かれて。キャスティングも、彼女の中古レコードまで買ってきて「沢口靖子いいんじゃねぇか」って。3人で会って出演OKももらってたんです。

 企画は、1度頓挫した。

 竹中 最初に予定していた監督が打ち合わせで、清志郎さんの話を「あ~」って不遜にうなずいてたんです。僕が我慢ならなくて「いいかげんにしてくれよ」って怒ったんです。でも、清志郎さんは「竹中、大丈夫だから。抑えろ」って。声を荒らげたことなんて1度もなかった人なんです。

 97年、2人の映画デートも宝物のような思い出だ。

 竹中 僕の「東京日和」の時、電話で「ヒットしてるんだろ。俺は毎日忙しいけど、明日は空いてるぜ」って誘ってくれて、一緒に有楽町で映画館に行きました。満員の客席に「竹中、やったな!」って喜んでくれて。「俺はあの忌野清志郎と一緒に映画を見てるんだ」って興奮やら、うれしいやらでした。

 70年代後半、ファンとして楽屋に押しかけた初対面の時から印象は変わらない。穏やかで優しい憧れの人だった。【瀬津真也】

 ◆竹中と清志郎さんの交流 70年代初頭。中3の竹中は、ラジオからの変な声が気になり、ライブを見に行き、清志郎さんに一目ぼれした。「ロック編成の“みんなのRC”になる前の、知る人ぞ知るフォーク3人組時代が“僕だけのRC、清志郎”が大好きでした」。美大生時代に知人の紹介でライブハウスの楽屋で初対面。アフロヘア姿で「8ミリ映画に出演してください」と直訴した。カメラの故障で実現しなかったが、会うたびに「映画どうなった?」と声をかけられる関係になった。06年3月の50歳の誕生日会に歌ってもらったのは「最高のプレゼントでした」。