【日刊スポーツ06年8月13日付「日曜日のヒーロー」】

 日本映画界屈指の怪優には、数多くの伝説がある。それは三国伝説と呼ばれ、役作りへの執念、役にのめり込んだ時の俳優の恐ろしさを感じさせるエピソードだ。57年「異母兄弟」。一回り以上年上の田中絹代さんと激しいラブシーンを演じなければならなかった。

 「馬小屋で乱暴してしまうシーンがあったのですが、抱え込むとどうも違和感がありました。考えてみたら自分の母と同い年。メークで老けてみても、どうも落ち着かない。思いついたのが僕が生理的に年を取ればいいんだと。そうすれば心のひずみがなくなり、自然な演技になると」。

 知り合いの歯医者を訪ね、上の前歯を1本残らず抜いてくれと説き伏せた。

 「友人の俳優西村晃には『おまえは本当にバカじゃねえか。抜いちゃったらもう生えてこないぞ』と言われましたが、どうせいつか抜け落ちてしまうもの。それなら、ちょっと早くてもいいやって」。

 58年「夜の鼓」では有馬稲子さんを殴って失神させた。

 「あれは今井正監督が悪い。有馬さんが『殴ったふりでは芝居に見えてしまう』と言っているので本気で殴ってと言われた。驚きました。殴ったら有馬さんが起きてこない。次のセリフがあったのですが困って言えませんでした」。

 僧侶の役が決まれば、半年以上前から頭をそり上げて、地肌を日に焼く。

 「坊さんの頭が青々しているわけはありません。でもそのおかげで面白そうだなという役が来ても、断るしかありません」。

 脚本を100回以上、声を出して読み、のどを痛めた。「復讐するは我にあり」で緒形拳に事前に何も言わずつばを吐きかけ激怒させた。高倉健と共演した作品で深作欣二監督とセリフについて口論になり、上野駅前で一日中スタッフを待たせた。「宮本武蔵」で和尚を演じたときは、部屋で一晩中待つ場面で内田吐夢監督に相談なしに小便に行く場面を付け加え、激怒され、逆ギレして降板…。

 「伝説というのは、たいてい虚飾にまみれておりますが、今、尋ねられたものは珍しく事実ばかりです」。

 俳優になるつもりはなかった。中国で終戦を迎え、抑留生活後に帰国したのは22歳。宮崎、鳥取、長野、静岡と転々とし、アルコール密造や魚の行商、でんぷん製造工場など職を変えた。上京して神社の縁の下で雨露をしのぐ日々も。27歳の時、東京・築地の運河のほとりで映画プロデューサーからスカウトされた。「メシをいっぱい食わせてやる」。この一言に誘われ、木下恵介監督「善魔」でデビュー。三国連太郎の名前はこの映画の役名からとった。その後も内田吐夢、山本薩夫、今井正、今村昌平ら名監督と仕事を重ねた。

 「僕に影響力を持った連中に次々と出会ってしまった。ここまで続けてこられたのはそれに尽きます。演出家の仲間たちとワイワイやるのがすごく好き。ほかに楽しみがないんです」。

 息子の佐藤浩市(45)も俳優として大活躍中。日本アカデミー賞、ブルーリボン賞で親子2代の主演男優賞獲得も達成している。

 「親の欲目もありますが、センスは悪くないのではないかと思います。ただ最近は彼の作品をあまり見に行かないようにしています。試写会などで感想を聞かれると、親だから甘いことしか言えない。そういうことが本人に悪影響を与えるのではないかと思って。自己満足が俳優にとって最も危険なのです。それにこだわっておぼれてはいけない。受け取ったトロフィーも自分の部屋に飾らないようにと伝えています」。

 浩市の母親とは、今村監督「神々の深き欲望」の撮影を沖縄で2年がかりで行った時に離婚した。浩市は中学生だった。製作費が縮小され、仕送りができなくなったからだ。浩市にはアパート暮らしをさせた。折を見て手紙を書いたりしたが心は晴れなかった。

 「失敗だらけの生き方を、子供になすりつけていたかも知れません。でもそれが僕の生きざま。揺れ動いて生きながら、才能ある演出家と出会ってきた。偽善よりも露悪。そうしなければ自分を正直に見つめられないと思ったわけです」。

 大学生になった浩市からある日、俳優の道に進む決意を聞かされた。

 「おやりになるなら、親子の縁を切りましょうと言いました。俳優という仕事に関して何かの支えになる自信がなかったのです。1人で生きていくしかない世界ですから。ただ、後悔だけはしないようにと言いました」。

 自分をさらけ出し、好きな演技にすべてをささげ、家庭を守ることもできなかった。そんな父親が歩んだ道を、息子が自分も歩むと言ってくれた。三国がこれ以上ない幸せをかみしめただろうことは、想像に難くない。