3月5日、2020年東京パラリンピック開幕まであと2000日の節目を迎えた。東京は史上初めてパラリンピックを2度開催する都市になる。1964年の東京パラリンピックに出場した近藤秀夫さん(79=高知県安芸市在住)に、当時とその後の人生を振り返ってもらうことで、パラリンピック開催の意義を探ってみる。

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「竹の弓矢とアーチェリー」

 飛行機を下りたら、そこは別世界だった。羽田空港に車いすのまま乗車できるリフトバスが待っていた。近藤さんは当時入所していた大分県別府市の重度障害者センターから12人で上京した。東京パラリンピック開幕3日前だった。

 近藤 外国にリフトバスがあるという話は聞いたことはあったけど、夢のようでした。羽田から選手村まではパトカーに先導されて高速道路も初めて見た。最初から感動の連続でした。

 1964年11月8日に開幕した大会は、21カ国・地域から375選手が参加。近藤さんはバスケットボールや陸上など6種目に出場した。すでに障がい者がスポーツを楽しむ環境ができていた欧米とは競技力に決定的な差があった。

 近藤 バスケットの米国戦では相手選手が私たちにボールを渡してくれて、ゴールまで花道をつくって「ここを通って入れるんだ」と言ってくれて、得点が入るとすごく喜んでくれた。体格も体力も競技レベルもまるで違っていて試合になりませんでした。

 無理もない。当時、ほとんどの米国選手が仕事を持ち、健常者と変わらぬ生活をしていたが、日本選手は53人のうち自営業者1人を除く全員が、病院や障がい者施設で療養生活を送っていた。競技への知識も乏しかった。

 近藤 アーチェリーは弓矢みたいなものだと聞いて出場を決め、竹で作った弓と矢を選手村に持ち込みました。ところが恥ずかしいからと誰かに隠された。試合当日に初めてアーチェリーを使いましたが、矢がどこに飛んだのかも分かりませんでした。

 日本の獲得メダル数10個は13番目。金メダルは卓球の1個だけだった。

【取材・構成=首藤正徳】

 ◆パラリンピック 64年東京大会を前に日本で作られた造語で、脊髄損傷などによる下肢まひを表すパラプレシアとオリンピックを組み合わせたもの。88年ソウル大会から正式名称になった。下肢まひ者以外も参加する現在は、パラをパラレル(平行)の解釈。「もう1つのオリンピック」という意味で使われる。

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