前途有望な新人のおかげで、とても懐かしい人を思い出した。阪神が球団史上初めてドラフト1位で指名した故・石床幹雄氏だ。高卒1年目の森木大智投手(19)がプロ初登板を果たした、8月28日中日戦。翌日29日付の日刊スポーツ(大阪版)に、現役時代の石床氏の写真が載った。

1965年(昭40)11月17日、日本プロ野球で初のドラフト会議が行われた。鈴木啓示(育英-近鉄)堀内恒夫(甲府商-巨人)長池徳二(法大-阪急)らアマ球界の精鋭が1期生候補として名を連ねた。阪神では、敏腕として知られた佐川直行スカウトが「私のスカウト人生を懸ける」と球団に掛け合い、香川・土庄(とのしょう)高の石床投手の1位指名が決まった。 瀬戸内海に浮かぶ小豆島で育った石床少年は、練習を視察に来た背広姿の佐川スカウトを見て不安になった。「あの方は刑事さんだろうか。野球部の誰かが、悪いことをしたんやろうか」。甲子園にほど近い当時の虎風荘に入寮すると、寝ていても市電が通るたびに目が覚めたと苦笑していた。

右の本格派オーバースロー。石床投手は1年目から、積極的に起用される。プロ初登板の66年7月2日大洋戦では、中継ぎとして4イニング無失点と上々のデビューを飾る。14試合に登板し0勝0敗ながら、防御率2・35は上出来だ。4年目の69年10月12日大洋戦で先発し、6回0/3を無失点で初勝利を挙げた。ここから順調に、主戦投手への道を歩むと思われた。

ところが、好事魔多し。この年のオフに受けた健康診断で、慢性腎炎の診断を受けた。70年のシーズンは静養に努めたが、8月に退団を決意。故郷へ戻り、生け魚料理の店「石床」を開いた。

「開店するころには、タイガースに関連する屋号も考えました。でも『自分の力でやってみたい』と思い直したんです」。この決意から当時、店内に野球に関する写真やサインなども一切なし。落ち着いた店内と新鮮な魚料理が人気で、島内のみならず遠方からの食事客でにぎわっていた。

石床氏は04年に、57歳の若さで亡くなった。生前には「夢を諦めなければならないときに、悩んだのは事実です。でも小豆島の病院で『長く野球をやっても10年くらいだ。その後の人生の方が、ずっと長いじゃないか』と言われ、吹っ切れたんです」とすがすがしい表情で語っていた。

厳しいプロの世界では、好成績を残すことができず消えていく選手が大半だ。ところが結果を出し始めながらも、このように不測の事態でユニホームを脱ぐ選手もいる。石床氏から数え、阪神で新人年に1軍戦に登板した高卒ドラフト1位は森木で6人目だ。無事にプロ生活を全うしてほしい。そして、球団初のドラフト入団選手がなし得なかったエースへの成長を果たしてほしい。

【記録室 高野勲】(スカイA「虎ヲタ」出演中。今年3月のテレビ東京系「なんでもクイズスタジアム プロ野球王決定戦」準優勝)