半世紀近い時を経て、パの両雄が再び相まみえる。今季のパCSファイナルステージは、優勝のオリックスー2位ソフトバンクと決まった。この2球団がポストシーズンに対戦するのは、1973年(昭48)以来、実に49年ぶりである。当時の阪急(現オリックス)VS南海(現ソフトバンク)という顔合わせだった。

パ・リーグではこの年、人気低迷の打開策として2シーズン制を採用した。全130試合を前期と後期に分け、それぞれ優勝チームを決める。前後期でV球団が異なれば、3勝先取のプレーオフを行い、年間優勝を決める。

長丁場を戦い抜く力に欠けても、65試合なら勢いで駆け抜けることができる。ペナントレースのヤマ場をファンは年に2度、さらにプレーオフも楽しむことができる。これらが魅力だった。パ・リーグの観客動員は、前年72年の253万9800人から、約60%増の406万0200人へとはね上がった。

導入初年度73年の前期は、選手兼任の野村克也監督率いる南海が優勝した。前年に東映(現日本ハム)から獲得した江本孟紀、同年に巨人から移籍の松原明夫(後の福士敬章)や山内新一らを使いこなした。「野村再生工場」本格稼働ともいうべきシーズンである。38勝中、完投勝ちは実に23試合を数えた。

後期は、西本幸雄監督が率いる阪急が独走で優勝を果たす。前期Vの南海戦では12勝1分けの勝率10割と、一方的にたたきのめした。

史上初めて行われるプレーオフ。後期の状況から、阪急の圧倒的な有利が伝えられた。ところが開幕前に、策士の野村監督は「奇数試合に勝つ」と宣言して揺さぶった。

10月19日の第<1>戦では、序盤の2点ビハインドを南海が逆転し、4-2でものにした。第<2>戦と<4>戦は阪急が、第<3>戦は南海が勝利。野村監督の予言通りにプレーオフは進んだ。

そして第<5>戦。8回まで両軍無得点と緊迫した展開となった。9回表にスミスと広瀬叔功が連続本塁打し、2-0と均衡を破った。ところがその裏に、阪急の当銀秀崇が代打本塁打を放ち、1点差となる。阪急は最後に、代打の切り札高井保弘を送り込んだ。ここで江本がマウンドへ。全球直球勝負で高井を三振に抑えた。南海が初のプレーオフを制し、パ・リーグ王者の座に就いた。

ここから49年。両球団は、数奇な運命をたどる。

南海としての優勝は、この73年が最後となった。77年オフに野村選手兼任監督が退団すると、チームは一気に弱体化。88年限りでダイエーに買収され、大阪から福岡へ移転した。05年からはソフトバンクに親会社が変更。ホークスは、パ・リーグ強豪の座に返り咲いた。

一方の阪急は75年から、3年連続日本一を含むパ4連覇を達成した。南海と同じ88年オフにオリックスとなり、91年にはブレーブスからブルーウェーブに愛称変更。本拠地も兵庫・西宮市から神戸へ移転する。04年オフの近鉄との合併を経て、バファローズと名乗り京セラドーム大阪へ再移転した。

かつて関西でしのぎを削り、史上初のプレーオフを戦った両球団のリターンマッチだ。元阪急がやり返すか、元南海が前回の再現を果たすか。2022年に両軍を率いるのは、オリックス中嶋聡、ソフトバンク藤本博史の両監督。それぞれの球団買収直前に、阪急と南海のユニホームを着て戦った間柄でもある。

【記録室 高野勲】(スカイA「虎ヲタ」出演中。今年3月のテレビ東京系「なんでもクイズスタジアム プロ野球王決定戦」準優勝)

73年10月、南海対阪急・プレーオフ 試合後、野村克也捕手兼監督(左)と握手を交わす江本孟紀
73年10月、南海対阪急・プレーオフ 試合後、野村克也捕手兼監督(左)と握手を交わす江本孟紀