5月に札幌市時計台からエスコンフィールドまでの約20キロを歩いて出勤した。懲りずにまた歩く。6月4日朝8時、横浜市金沢区の能見台駅前から歩く。

野生のリス(かイタチ)に遭遇しながら丘を越えると、横浜高校の長浜グラウンドがある。雰囲気豊かな坂道だ。20年前、新人記者として初めて訪れた。緊張で吐きそうになった。

西武OBの松坂大輔さん(42)をはじめ、数多くの名選手が巣立った。いくつかあるうち真ん中のブルペンはエースしか使えない、と何度も聞いた。

「僕、知らずに真ん中を使っちゃったんですよ」

恐縮の苦笑いを浮かべるのは西武ルーキーで、高校時代は横浜隼人でプレーした青山美夏人投手(22)だ。横須賀シニアに所属した中学時代、同校OB指導者のチームによる大会が長浜グラウンドで行われた。

「真ん中で投げてたら『そこ、横高のエースしか投げられない場所だよ』って言われて、え~っ!? みたいな感じで」

そんな伝統の地から、交流戦DeNA戦が行われる横浜スタジアムまで歩く。前日3日、青山にそっと伝えると「…え? えーっ!? 金沢区からっすか!?」となかなかのリアクションで驚いていた。

そうです、歩きます。朝日直射す富岡の阜-。全国の高校野球ファンに知られる校歌の情景を行く。紺碧の波は見えず、額が早くも汗ばみ出す。私は42歳、いわゆる松坂世代の1人だ。

神奈川県内の高校に通った。野球はしなかった。当時のフィーバーに属性は関係なかった。高校の同窓生には、現在も活躍する有名歌手が2人いる。しかし文化祭では彼らを差し置き、友人に会いに来たらしい横浜高校甲子園優勝メンバーが脚光を浴びていた。

松坂投手は横浜ベイスターズ志望だと報道で何度も見た。ほぼ無関係の私たちの校内も皆、横浜入りを願った。ドラフト会議当日。授業中にラジオ中継を聴いていた級友が「西武!」と叫んだ。「え~っ…」が広がった。それほどのヒーローだった。

一方で数十分後、「西武松坂」を誰よりも喜んだ人が遠く九州に現れた。

「よっしゃ、対戦しなくて済む! って。速攻、松坂にメールしました」

ドラフト2位で西武に指名された日南学園(宮崎)の赤田将吾内野手だ。現在、西武1軍で外野守備走塁コーチを務める。

松坂さんの横浜志望も知っていたから「絶対来いよ」ともメールした。横浜とは秋季国体で対戦した。

「あいつ、先発してこなかったんですよ。ライトでスタメンで。僕、1打席目ライトにフェンス直撃打って、二塁で刺されました。試合途中から投げてきて、初球インコースのスライダーをレフトポール際に大ファウル、2球目フォークを空振り、3球目高め直球、高校最速155キロだか156キロを空振り、3球三振(笑い)。あとで聞いたらスライダーはファウルを打たせる球だったらしく。僕、踊らされてましたね」

私も大和引地台球場で行われたその試合を観戦した。赤田コーチの姿も覚えている。25年前の話だ。怠けるとすぐ体がつる。

屏風ヶ浦の絶崖を眺めながら1時間で磯子まで歩いた。ムチを入れよう。わざわざ階段190段を攻め、根岸の丘へ上る。おいがこのあたりに暮らす。彼にとって私は「伯父さん」で、世の中では立派な「オジさん」なのが現実だ。

21年前の春、入社面接で松坂さんの名前を出した。「取材してみたい」と言った。今年2月、四半世紀越しに当時描いた機会が。南郷キャンプに松坂さんが臨時コーチとして訪れた。囲み取材で尋ねた。

「甲子園から25年たって、42歳という年齢になって、今後やってみたいことなどはありますか?」

松坂さんが上を見た。

「25年ですか…。うーん、やってみたいこと、やってみたいこと…」

目が合った。「うーん、うーん、難しいですね」。それでも一生懸命、答えを考えてくれている。なんだかとても申し訳ない。赤田コーチは「実力はずば抜けて、人柄も皆が認めている」とたたえる。大エースはその通りの人だった。

「毎年毎年、勉強しなきゃと思っています。考えていることはありますけど、まぁ、毎日が勉強だと思って過ごしています。年齢は関係ありませんね」

年齢は関係ない-。世代の旗手の言葉が、自分にけっこう響いた。毎日、強烈なエネルギーの若獅子たちを追う。もう若くない、とか自分に言い訳しない。

というわけで横浜高校から歩くこと2時間37分、横浜スタジアムに着いた。東洋一の商港、横浜。みかん氷で体を冷やし、試合取材へ。4-0で勝っていた。あと1点くらい入れば、青山が最終回に投げて勝つという、この記事的にも理想的な流れになるかも。が、逆転負けした。人生いろいろ。うまくオチる話ばかりじゃない。【西武担当 金子真仁】