わずか58年の人生では足りなかった。2000年(平12)から労組プロ野球選手会の事務局長を務めた松原徹氏は、志半ばの15年9月20日、ぼうこうがんのために亡くなった。

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その直前まで、抗がん剤治療で薄くなった頭にバンダナを巻きながら野球界を駆け回っていた。「僕には夢があるんだ」。野球版の“天皇杯”。プロアマの垣根を越えた最強チーム決定トーナメント戦の実現に意欲を燃やしていた。

亡くなる2カ月ほど前、松原氏には構想ができあがっていた。「大学選手権の上位校と、社会人は前年の日本選手権の上位チームを交えてトーナメント戦をやりたいと思ってる」。高校生は? 「高校生はそのうち入ってほしいけど、今は時期尚早だよね。実は大学や社会人の団体とは会える人には話をさせてもらってる」。すでに交渉に入っていたことに驚かされた。酒席での話。闘病中の松原氏はしらふだが、こちらは少し、お酒が入っていた。忘れないようにスマートフォンに要旨を打ち込んだ。

開催時期はいつぐらいを考えてるんですか? 「僕はオールスターの代わりにやれればと思っている。試合数も限られるだろうから、全体で8から12チームぐらいのトーナメントで」。それならばプロは3試合で済む。交流戦ができて10年がたっていた当時、その直後に開催するオールスターの意味を問う話はすでによく出ていた。その課題も解消しようという私案。ウーロン茶でのどを湿らせながら、熱く語った。思えば、常に「球界を良くしたい」と考えている人だった。

13年6月、12球団臨時代表者会議に出席する労組日本プロ野球選手会松原徹事務局長(右)
13年6月、12球団臨時代表者会議に出席する労組日本プロ野球選手会松原徹事務局長(右)

04年の球界再編で、古田敦也会長とともに難局を乗り切ったのはよく知られている。その時も抜群の行動力が武器だった。ロッテで1軍マネジャーをしていた時の経験が生きた。当時主力だった落合博満氏から言われたひと言を大事にしていた。「電話をかけてきそうな人には先に電話をしておきなさい」。最初はむちゃだと思ったという。だが「準備が大切だということ」と変換して肝に銘じた。

死を前にしても、松原氏は朗らかだった。「もう、こうなったら何にでもすがろうと思ってるんです」。医学的に立証されていない健康法や宗教じみたことまで試した。「親戚の人たちも『こんなのあるよ』って協力してくれたりして、ありがたいし、うれしいんですよ」。力尽きる直前まで、野球界のことを考えていただろうことは想像に難くない。プロアマの垣根は以前よりなくなってきているとはいえ、トーナメント戦の実現は余人には至難の業だ。松原氏にあともう少し時間があったら…そう思えてならない。【竹内智信】

◆松原徹(まつばら・とおる)1957年(昭32)5月22日、川崎市生まれ。神奈川大を卒業し、81年に株式会社ロッテオリオンズに入社。管理部職員となった。83年から1、2軍マネジャーを歴任。88年12月に、当時選手だった落合博満の薦めでプロ野球選手会の仕事に携わった。