ロッテ佐々木朗希投手(19)は知らない。自身のひと言が、地元三陸に小さな奇跡を呼んだことを-。

昨年6月のこと。岩手・大船渡市内の水野醤油店の電話が鳴った。同店3代目、水野一也さん(57)は驚いた。電話の主は宮城・石巻市に住む高砂剛志さん(58)。2人は仙台経理専門学校の同級生。もう25年ほど音信不通だった。

大船渡市の水野一也さん(左)と石巻市の高砂剛志さん
大船渡市の水野一也さん(左)と石巻市の高砂剛志さん

野球関係者ではない2人の縁を、野球が戻した。コロナ禍のファンサービスとして、ロッテが選手らの「Q&A」企画をSNS上で実施。佐々木朗がその中で「恋しい食べ物」として、とにかく酸っぱいご当地調味料「酢の素」を挙げた。創業約90年、水野醤油店の看板商品の1つだ。

日刊スポーツは、5月下旬の東京本社版3面記事で“朗希のケンミンショー”として大きく報じた。石巻で新聞販売店を営む高砂さんも、久々に旧友の名を記事内に見た。全国各地から酢の素の注文が相次ぐ現象を報じた6月の地元紙記事に、水野醤油店の電話番号が載っていた。

20年5月24日付・日刊スポーツ東京本社版3面
20年5月24日付・日刊スポーツ東京本社版3面

四半世紀ぶりの会話は「生きてたか!」だった。「お前は死ぬはずがないと思ってた」と言い合った。あの頃はいつも5、6人で一緒にいた。授業を終えると「食事して、ちょっとパチンコして、最後は喫茶店かな」という青春の日々。2人は特にバイクの話で盛り上がった。商店の2代目候補たちは卒業後、東北各地へ戻っていった。

年賀状のやりとりも減ってきた頃合いに訪れた、東日本大震災。大船渡も石巻も大津波に襲われ、多くの人が亡くなった。直後の数カ月、数年は身の回りで精いっぱい。安否を気にしながらこの10年、具体的な行動には移せずにいた。まさかの佐々木朗希が、一瞬で2人の空白をゼロにした。「ずっと会ってなかった感じじゃなくて、そのままあの頃に戻った感覚で」。

水野さんは夏、アポなしで石巻を訪れた。住所も、なんなら電話番号も記憶している。驚いた顔も変わらない。「年取っても友達は友達のままですね」。今度はお互いに「老けたな」と笑い合った。同窓会の計画も立て始めた。

「本当に朗希君のおかげ。ものすごくうれしいですよ。この年になると、東北6県に散らばったやつらが会おうというのはなかなかできない。朗希君のひと言がなければ、もしかしたらもう会うことはなかったのかもしれない。でも、きっかけさえあればすぐ会えるって分かりました」

6日には気仙沼湾横断橋の開通に伴い、仙台~宮古間の約250キロが三陸自動車道1本でつながる。もっと近くなる。【金子真仁】

<水野さん&高砂さんの10年>

11年3月11日 水野さんは店舗2階で被災。両親と山へ避難。高砂さんは会議のため仙台市内に。

同15日 水野さんは停電復旧に伴い店舗へ。津波被害はなかった。

同26日 高砂さんは石巻市内の避難所20カ所に新聞配達を再開。この頃、水野さんは一緒にミニバスの指導をしていた友人が被災したため、買い出しやガソリン確保に日々奔走。

12年2月 ミニバスチームが札幌市から招待を受け、水野さんも同行。

13年10月 水野さん結婚。

19年 水野醤油店のサービス品「甘酢」がファンの声を受けて商品化。

20年5月下旬 佐々木朗の「酢の素」ラブコール。