日本ハム元オーナーの大社啓二氏(63)が、伝統球団にとって激動の時代となった平成を振り返ります。まずは、2004年(平16)に本拠地を東京から北海道へと移転した経緯について。当時の経営状況や、日本ハム創業者である初代オーナー大社義規氏の深い野球愛も踏まえ、複数の候補地から北海道を選んでいく背景について語りました。

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2006年(平18)の日本ハムは、81年以来25年ぶりのリーグ制覇、62年以来44年ぶりの日本一を達成した。

日本ハムとしては初の日本一。北海道移転3年目の悲願達成。中日を制した10月26日、札幌ドームで初代オーナーの遺影を手にした大社啓二は宙に舞った。

感動的なシーンには秘話が隠されている。

大社 バックネット裏、球団用の部屋で見ていたら、7回くらいに廊下に呼ばれて。行ったら新庄選手が立っていました。「オーナー用意しておいて下さいよ」と。新庄選手が持ってきたかは覚えていないけど、誰かが写真も持ってきてくれました。それでスタンバイして、あのようなセレモニーになったんです。

日本ハムが球団経営に乗り出したのは73年11月。日拓を買収したのが契機だった。創業者の大社義規は「球界一、球場に足を運ぶオーナー」と称された。おいにあたる啓二は、本業の後継者として日本ハムのオーナー職も引き継いだ。義規が05年4月27日に死去するまで、ファイターズへの深い愛情に身近に触れていたのだ。

大社 いつも黙って試合を観戦する姿、仕事の場では見たことのない、選手を見るときの優しいまなざし、勝った試合でのうれしそうな顔。そのすべてが、わたしへのメッセージと思っていました。決して采配を批判せず、ひたすら応援する。選手とチームをわが子のように愛し、だれよりも勝利、優勝を望んだ方でした。

球団経営が苦境に立たされた00年ころには、一部から球団を手放す案も提案されたことがあったが、かたくなに守り続けた。

大社 かなり深刻な事態だったのを覚えています。赤字経営の球団を、単に宣伝広告として保有していると、創業者があれだけファイターズを愛することが、逆に道楽と捉えられる。創業者があれだけ野球を、ファイターズを愛した方だけに、そういう方が大切にしてきた球団をさらにいい方向性へ向かわせるためにも、フランチャイズ移転の本格化が頭をよぎったのは事実です。

北海道移転が決まった直後の02年8月、日本ハム本社の子会社による不祥事が発覚した。87歳だった本社の代表取締役会長・球団オーナーの義規は、静かにすべての役職を辞した。

退任後、車椅子と体調不安で球場に応援に出向くことはなかったが、ひたすらテレビ観戦の日々を続ける。そのときの相手が、啓二の息子で当時中学生の寛之だった。先代が孫とのテレビ観戦を楽しむ様子をながめながら、啓二は必ず北海道での再出発を成功させ、常勝球団にしなければと覚悟を決めた。

04年、札幌ドームでの開幕戦に車椅子で駆けつけた義規は「大きいなぁ」と感慨深げだった。いつもと同じく、静かに楽しげに“わが子”たちのプレーを見守った。

伝説のオーナーとして知られる先代の魂が宿ったファイターズは、北の大地にしっかりと根を張りながら、着実に進化を遂げていく。(敬称略=つづく)【寺尾博和、木下大輔】

00年1月、日本ハム名護キャンプの視察に訪れた大社義規オーナー(右)。左は田中幸雄
00年1月、日本ハム名護キャンプの視察に訪れた大社義規オーナー(右)。左は田中幸雄