1915年(大4)、第1回全国中等学校優勝野球大会に出場した三重・山田中。現在は宇治山田と校名を変えているが、その第1回以来、夏の甲子園の出場がない。もっとも近づいたのは、1992年(平4)。三重大会決勝まで進んだが延長10回サヨナラ負け。あと1歩で古豪復活を逃したが、その時の悲運の右腕は、現在ソフトバンク投手統括コーチを務める倉野信次(43)だった。

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 少し疲れていたのかもしれない。

 倉野 頭がちょっと、ぼーっとしてしまっていた。

 宇治山田の「ダブルエース」の1人として、準々決勝、準決勝を完封して臨んだ決勝。もう1人の投手と合わせて決勝まで全5試合完封で勝ち進んでいた。「奇跡だったと思う」。倉野が振り返るように、県内有数の進学校、宇治山田の快進撃に周囲は期待を寄せていた。そして決勝。1-1で迎えた延長10回表に味方が1死二、三塁のチャンスをつかむも無得点に終わった。

 倉野 その裏にサヨナラ負けをしてしまった。どこか気持ちが入ってない球を投げてしまったんですが、不思議と悔しさはなかった。決勝まできたことで満足していた。勝てば、甲子園に行けば77年ぶりと騒いでいたのは知っていた。地元新聞でも「宇治山田 大旋風」なんて書かれてましたから。でも僕らは勝ったら甲子園なんて実感はなかった。

 決勝に進んだのはその1回だけ。15年にはセンバツの21世紀枠の候補にも選ばれたが選出されなかった。甲子園は遠い。倉野が「満足」と振り返るように、宇治山田は他部とグラウンドを共有するため、十分な練習環境にはない。倉野自身も「大学に行くために山高(宇治山田)に行った」という。「決勝まで行って満足だった」というのも無理はない。

 当時、三重県の高校受験は地域ごとに分かれていた。倉野は伊勢市の1~3群に分かれていた3群に所属し、公立校は「伊勢」か「宇治山田」に限られていた。伊勢に進んでいれば、前述のようなことはなかった。さらに倉野は「不思議な縁」を感じている。

 倉野 いわゆる滑り止めで受けた私立が三重だった。実は熱心に野球で誘ってくれていたんです。でも進学希望だったし。それが、あの決勝で負けた相手が三重だったなんて…。

 甲子園に復活するチャンスをもぎ取られたのが三重だった。実は2年の秋も2回戦で三重に負けていた。

 倉野 僕らは僕らなりに工夫はしてました。全体練習があまりできないので、個人的にみんなが自分でメニューを作って個別練習をしていた。自分も自宅と学校の間にあるジムに通って鍛えていた。その経験はその後、プロにまで行かせてもらったし、現在もコーチもしている。自分で考えることの大事さを経験したのは大きかった。

 学校の歴史は変えることができなかったが、倉野の人生の大きな転換点になった。古豪復活まであと1歩。悔しさを引きずらず、今に、そして今後に生かすつもりだ。(敬称略)【浦田由紀夫】

 ◆三重の夏甲子園 通算33勝55敗1分け。優勝1回、準V1回。最多出場=三重12回。

東浜を指導する倉野投手統括コーチ
東浜を指導する倉野投手統括コーチ