一塁側アルプス席の指笛が鳴りやんだ。4回裏無死一、二塁、1点を追う興南の攻撃中だった。甲子園にサイレンが響き、黙とうがささげられた。我喜屋優監督(68)はしみじみと言った。「選手宣誓にも、感謝、幸せ、平和という素晴らしい言葉があった。高校野球の担い手になって、継続しながら、がんばっていこうと。あれから50年でこういう場に立っている。何かの縁を感じる」。興南旋風で4強入りした50回大会から半世紀がたった。春夏連覇の10年には、終戦記念日に2回戦で明徳義塾と戦った。沖縄代表として「今」をかみしめた。

 太平洋戦争により、26回大会を最後に5年間、中断する。終戦直後、大会の再開に動いたのが、日本高野連の佐伯達夫元会長(故人)だった。「戦争で荒廃した世の中を復興させるために、若者たちに希望を与えないといけない」。その中でも特にこだわったのが、沖縄の球児育成だった。鹿児島県選抜など本土からチームを派遣し、技術向上を促した。58年の40回大会では、記念大会ということで各都道府県の代表を参加させた。まだ1県1代表ではない時代。米国統治下でパスポートが必要な沖縄代表を呼ぶことも忘れなかった。

 沖縄県高野連元理事長の安里嗣則氏は、当時の逸話を明かす。周囲から「沖縄をなぜそんなに特別扱いするのか」という声が上がったが、佐伯元会長は烈火のごとく怒ったという。

 「沖縄は日本の中で激しい地上戦を展開したところだ。草木なくなり、食べ物もない。沖縄をどう立ち上げていくか。まずは青少年の野球から立ち上げていこう。それが我々、日本高野連がなすべきことだ」

 安里氏は佐伯元会長の強い言葉をそう記憶する。球児を育成することが沖縄復興の力になる、と考えていた。

 思いに応えるように、沖縄の高校野球関係者はレベルアップに励んだ。春3度、夏1度の優勝を飾り、県勢の勝利数は春夏合わせて99勝。この日惜しくも節目の100勝を逃したが、戦後復興の象徴になった。

 興南が初戦を迎えた9日の朝。沖縄県高野連の岩崎勝久会長と又吉忠理事長は佐伯元会長の墓を参った。感謝の気持ちを込め、掃除もした。同理事長は「佐伯先生は沖縄高校野球の生みの親であり、大恩人です。今でも、試合の日は沖縄が1つになる。野球を知らない人も。ウチナーンチュ(沖縄人)です」と言った。

 この日、レジェンド始球式で登場した同県出身の安仁屋宗八さんは思いを込めた。「100回大会を迎えられたが、日本が平和じゃないと、続くことじゃない。戦争というのは、2度と起きてはいけない。終戦の日に始球式をさせてもらえることは一生の思い出です」。大きな節目の記念大会。終戦記念日の正午に、沖縄代表の興南が甲子園でプレーしていた。単なる偶然だろうか。平和とともに、球児の夏は回数を重ねていく。【田口真一郎】