1969年(昭44)夏の甲子園準優勝後、三沢(青森)のエース太田を取り巻く熱気は、すさまじいものになった。甲子園の力投、あと1歩で大優勝旗を逃した悲劇性、印象的な美貌。17歳の太田には、人の心をわしづかみにする要素が備わっていた。

大会を終えた翌日、太田は同僚の桃井久男、八重沢憲一らとブラジル遠征の高校日本代表に選ばれ、合宿地の東京に向かった。非公表の宿泊先に連日、段ボール3個分の手紙、贈り物が届いた。1カ月後にブラジルから帰国した際も、到着日も便名も極秘にもかかわらず早朝の羽田空港は人であふれ、青森・八戸から三沢までのパレードも沿道は人、また人だった。

太田 そのあと長崎国体に行ったときも、身動きは取れんかった。負けたあとにグラバー邸とかいろいろ名所を回りましたが、ぼくはバスから出なかった。

今なら甲子園の人気球児にも彼女はいる時代だが、気になる女性はいたのか。

太田 中学のときにそれらしき人はいたけど。1年後輩で三沢に入ってきた。その子には甲子園後に記念の物をあげたけどね。

だが交際には発展しなかった。

太田 そんな暇はないし、当時は女の子と町を歩いただけで町中のうわさやし、喫茶店に入ったら不良やと言われた時代やから。時代が違う。本当に野球だけでした。

人気の裏で、つらいことも起きた。ブラジルから帰国直後、出自に関するゴシップ記事が出た。「わりとそういうのは気にしなかった」と太田は言うが、1人の球児が異常な状況下に置かれていた。

太田 2年の夏に初めて甲子園に出たときは2人(両親)とも来たけど、3年夏の予選は2人とも入院してたんで、病室で「行ってくるわ」って。1、2回戦はおやじは心臓によくないからってテレビも見せてもらえんかったらしい。最後は電器店の人が病室にテレビを持ってきてくれて、看護師さんらとわーわー言いながら決勝戦を見たらしいよ。ブラジルから帰ったときには八戸におふくろが来てくれた。

当然のようにプロに進んだ後も注目された。太田は同年秋のドラフト1位指名で近鉄入団。1年目のオフに本拠地・藤井寺球場近くに家を買い、翌春キャンプ後に両親を呼び寄せた。親孝行ができる環境は安らぎとなったが、熱気は重荷にもなった。プロで成績を残せなくても3年連続でファン投票1位で球宴に選ばれ、肩身の狭い思いをした。

太田 プロ2年目あたりから「人気先行」と書かれ始めて。俺が頼んだわけじゃねえぞ、勝手に持ち上げて、はしご外すなよって心の中で叫んでいました。コメントでも揚げ足取るというか、違うニュアンスで記事を書かれたりするのがあまりに多かったから、それやったらもうしゃべらんとこうと。自己防衛でした。

それでも太田には、戻る場所があった。家族のような存在でもある、三沢のチームメートのもとだった。幼なじみだった三沢の一塁手、菊池弘義は言う。

菊池 どんなに人気が出ても、えらそうにしたりしない。ずっと、昔から知ってる太田のままだった。

甲子園の決勝を戦った松山商(愛媛)のエース井上明も、三沢の団結力を感じていた。

井上 太田がチームの中で浮いている感じもない。1つになったチームという印象でした。

生涯にわたる友との絆が、太田を太田でいさせてくれた。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月27日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)