2度目の甲子園となった1983年(昭58)センバツで三浦を擁する横浜商(神奈川)は、駆け上がっていった。決勝までの足跡と三浦の投球内容を記しておく。

▽1回戦 横浜商7-2広島商 三浦=9回6安打11奪三振2失点

▽2回戦 横浜商1-0星稜(石川) 三浦=9回3安打9奪三振無失点

▽準々決勝 横浜商2-0駒大岩見沢(北海道) 三浦=9回3安打0奪三振無失点

▽準決勝 横浜商4-0東海大一(静岡) 三浦=9回6安打3奪三振無失点

三浦は3試合連続完封を飾り、決勝を迎えた。相手は82年夏の王者、池田(徳島)。エース水野雄仁を軸に4試合で31得点と猛打で勝ち上がってきていた。

試合開始のサイレンが鳴り終わるまでに、1番打者に右前打を許した。いきなり「やまびこ打線」の洗礼にあった。9回3失点と奮闘したが12安打を浴びた。

池田3-0横浜商。

三浦 (投手・水野は)右打者に向かってくる感じ。でも外角に投げられるから、のけぞっちゃって打てない。そこから曲げられると視界から消えた。

35年前のコメントは「池田は10回やっても10回ともウチが負けますよ」だった。力不足を痛感した。

日本一をつかむチャンスは、あと1度となった。その軌跡をたどる前に、三浦に高校時代の練習について振り返ってもらった。

三浦 とにかく練習が嫌いだった。いかにサボるか、見つからずに楽できるかを考えていた。

3年生となれば練習にも自由度があり、三浦は「雨の日はブルペンで投げても3球。あとはずっと卓球をしていた」とも話した。そして「強豪校=猛練習」のイメージとはかけ離れるが、大の練習嫌いでサボりの名人だったようである。横浜市内の急勾配な坂で知られる「稲荷坂」でのランニングメニューでは監督の目を盗んでは木陰に隠れ、ノルマの本数をごまかした。もちろん、三浦だけがサボっていたわけではない。

最上級生として新チーム発足時のヒッチハイク事件が象徴的だ。横浜商は新チーム結成時に福島で1週間の合宿を行うのが恒例だった。毎日、グラウンドから宿舎までの約25キロの一本道を、走って帰るのが練習のラストメニューだった。三浦も、他のナインも、最も嫌いな練習だった。

ある日、その過酷な練習中にレギュラー7人が1台の軽トラックを止め、それに乗り込み、悠々と宿舎に戻った。ヒッチハイクは成功かと思われた。しかし、運悪くその車は宿舎のもの。悪事は明るみとなり、乗車メンバーはたっぷりとしぼられることになった。ただ、今どきの言葉で言えば、三浦は“持っている”。そのとき、サボり名人がなぜか、軽トラックに乗らなかったのである。

三浦 たまたま、そのとき(ヒッチハイクを)やらなかった。ちまちま走ろうと思って。

もちろん、練習をしなかったわけではない。つらい時間の中に「遊び」の部分があったという方が正確だろう。鍛錬がなければ、激戦区・神奈川を勝ち抜けるはずもない。センバツ準Vから約4カ月後。三浦は3年生で初めて、夏の甲子園切符をつかんだ。

春に決勝でぶつかった池田も、夏春夏の3季連続優勝を目指し、乗り込んできた大会だった。(敬称略=つづく)

【宮崎えり子】

(2017年8月31日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)