中西太を「怪童」と名付けたのは、「学生野球の父」と称される飛田穂洲(すいしゅう)のようだ。

高松一は1951年(昭26)の第33回大会で、準決勝の平安戦に惜敗し、中西は甲子園を後にした。

中西 有終の美は飾ることができなかったが、中学、高校の6年間でやるだけのことはやった。わが野球青春に悔いなしというのが正直な心境だった。私にとっての財産だ。

翌8月19日付の朝日新聞に、当時、記者だった飛田は次のように書き残した。

「中西の強打が左翼手の頭上にうなり(中略)、1点を残したまま平安に名をなさしめるという壮烈な敗戦ぶりだった」

一説には、野球評論家の大和球士がネーミングしたともいわれるが、「高松に中西あり」と脚光を浴びた事実に揺るぎはなかった。

中西 私は戦火をくぐってこれた。あのまま防空壕(ごう)にいたら命はなかったから、運が良かったとしか言いようがない。小さい頃から人様に迷惑をかけるなとしつけられた。貧しい何もない土壌で、良き友、素晴らしい指導者に恵まれた。野球バカといわれるかもしれないが、野球は幸せをつかませてくれた。

小学時代に高松空襲にあって防空壕に逃げ込んだ。そこを出て大人たちにならって歩いた先の畑で、1人で座っているうちに、防空壕は爆撃されていた。

高松一では監督舛形博の厳しい指導で、手から血が噴き出るほどキャッチボール、スイングなど壮絶な練習を繰り返す。石清尾(いわせお)八幡宮での階段登りも思い出深い。ベースランニングには、当時珍しいタイムトライアルが採用された。

中西 昔から高松の野球は、基本に忠実なのが伝統だ。工夫を凝らしたレベルの高い練習をすることで知られた。タイムトライアルを採り入れたのも競争意識を高めるためだ。

早大進学を志望も、西鉄ライオンズ監督で、後に義父になる三原脩から勧誘を受けてプロ入り。きっかけは高3夏の甲子園で敗退後、熊本での全国大会(東口杯)の平安との決勝戦でバックスクリーンに放った本塁打だ。三原が視察した出雲での招待試合で、豪快な2本塁打を見せつけて獲得に至るのだった。

史上最年少でトリプルスリーを記録した53年を含む、本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回のタイトル獲得。打率、打点、本塁打の3部門で同一年に2冠に輝くこと4度。僅差で3冠王を逃したことからも、いかにすさまじかったかがうかがえる。

西鉄で18年間プレーした後、兼任を含めて、日本ハム、阪神監督を務める。計9球団で監督、コーチとして指導した名伯楽。「長所を伸ばす」を信条とし、数多くの球界を代表する打者が羽ばたいた。

高松市内の「たかまつミライエ」には、『高松市市民栄誉賞』を受賞した功績をたたえ、寄贈資料を展示した「中西太コーナー」が設立されている。

今も中西は自宅のテレビで米大リーグをチェックし、各球場に出掛けてプロ野球選手を激励する日々を送っている。

今年のドラフト会議では、甲子園を沸かせた清宮幸太郎(早実)が日本ハム、安田尚憲(履正社)がロッテ、中村奨成(広陵)が広島から指名を受けた。

中西 我々の高校時代に比べると体格が良くなって、野球のセオリーもよく知っていて、レベルが高い。バットも違う、環境も違うが、力だけでなく、いいポイントで打つことだ。しかし、現状に甘んじて基本に沿わないプレーをしていると、プロで段階が上がってからつまずく。

中西は「なかなか清宮のような長距離打者は出てこない。三塁手の安田も、捕手の中村もいいね。3人ともいいチームから指名を受けた。指導者は死に物狂いで手助けをしてあげてほしい」と注文をつけた。「この子たちが一人前に育つまで、まだまだ私も死ねないよ」。元祖怪童は、そう言って豪快に笑った。(敬称略=おわり)【寺尾博和】

(2017年11月1日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)