1995年(平7)夏の和歌山大会準決勝で、箕島は高野山に敗れた。4年ぶりの甲子園を逃した後、尾藤公は監督職を教え子の野球部長、松下博紀に譲り、退任。勇退後は松下の奮闘を見守りながら、日本高野連常任理事、技術・振興委員長、高校野球の指導者を育てる「野球塾」塾長として後進の指導にあたった。

尾藤の立場が変わっても、続いていた試合があった。79年夏の甲子園3回戦で延長18回の激闘を繰り広げた星稜(石川)との定期戦だ。当時のメンバーが集まり、再試合は94年に和歌山、再々試合は04年に石川で行われた。そして再々々試合は10年9月23日、甲子園で開かれることになった。

尾藤は病の床にいた。04年4月に前立腺摘出手術。1カ月後にはぼうこう摘出の大手術を受けたが、07年12月に食道と胃、09年4月には骨盤にがんが転移。手術が困難な場所で、夏場は放射線治療を受け続けた。壮絶ながんとの闘いを「命の延長戦」と名付け、不屈の精神で病魔に挑んだ。再々々試合の甲子園開催は、尾藤の魂を照らす光だった。

甲子園に向かう前日、尾藤は「明日、お前の車で行くからな」と元野球部長の田井伸幸に告げた。激痛で足は弱り、移動は車いす。常勝を誇った甲子園で、いつも隣にいた田井に命を預けた。

田井 あの翌日であれば行けてないと思う。ぎりぎりの日やった。分刻みで投薬を続けていた時期やったから。僕も方法を教わって、万が一のときには僕ができるように。奥さんは別で行かれて、尾藤さんと2人で甲子園に行きました。家でトイレに行って、甲子園ではせずに、帰ってきてトイレとそういう計画やったんや。水は控えないかん。だから甲子園には、1イニング表裏しかいてる時間はなかった。

前日は雨だった。前夜祭で翌日の成功を祈って酒をくみかわしながら、出席者は気をもんでいた。甲子園開催に動いた当時の阪神球団常務(現在は阪神球団社長)の揚塩健治が「遅くに悪いけど、シートをかけてくれへんか」と球場長に電話した。「今、みんなで敷いていますよ」の言葉が返ってきた。雨に振り回された昨年のクライマックスシリーズ・ファーストステージで“神整備”を見せた阪神園芸、球場職員らが、万全の態勢で備えていた。

田井 それを揚塩さんが言うてくれた。「これは尾藤さんのなせる業。尾藤さんやからこそ、です」と。電話で尾藤さんに伝えたら「そうか…。そうか…」と泣いていた。

夜が明け、79年当時のメンバーら箕島OB、総監督の山下智茂に率いられた星稜OBが甲子園に集った。球審・永野元玄(もとはる)ら4審判、両校先導員(プラカード嬢)、球場放送員も当時の顔ぶれがそろった。「勝敗を超えた仲間ができた。あの時代に生きることができて幸せやった。そう思えた試合やった」と尾藤が宝にした一戦を知る皆が、箕島のユニホーム姿の名将を待っていた。

「言葉がないです。甲子園は故郷の風景。心の故郷の風景です。幸せな人生でした」と震える声で思いを伝え、尾藤は涙をぬぐった。人生、人脈を物語る試合の半年後、尾藤は「命の延長戦」を終えた。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年1月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)