尾藤公がこの世を去った2年後の13年3月1日、箕島に2代目「尾藤監督」が誕生した。前年からコーチを務めていた長男強が、監督に就任。同年夏、29年ぶりに母校を夏の甲子園に導いた。1回戦の日川(山梨)戦。敗れはしたが「おやじは甲子園のどこかにおるやろなと思い、試合しました」と奮闘した。

溺愛型の父だった。強には「パパ」と呼ばせ、目の中に入れても痛くないほどかわいがった。ただ、その親子関係は独特だった。

 とにかく家におらんかった。年に何回か会う親戚の、気のいいおっちゃんくらいの感覚でした。

強の登校後に父は起き出し、練習後は仲間と楽しく飲んで強が寝た後に帰って来る。珍しく早く帰ったときは友人、監督仲間らと一緒。「トンちゃんいてる?」とひっきりなしに訪れる両親の知人に囲まれ、強は育った。

友だちが来ない日も、電話がかかる。父に何か頼み事をする際も「この忙しいおっさんの時間をどう奪おうかと、子供のときからプレゼンみたいなのが頭にあった」と苦笑する。簡潔に思いを伝えることに腐心した。母さとみは「箕島で一緒に野球するまでパパは強の性格分かってなかったわ」と息子に明かした。事実、父は強がPL学園(大阪)志望と思いこみ、勝手に動いたほどだった。物心ついたころから箕島野球部ファンの強は、入部を心待ちにしていたというのに。

だが入学直後、2人の距離感を縮める出来事があった。1年5月の北海道遠征の練習試合だった。

 無死二塁で送りバントを失敗してキャッチャーフライを上げてしまったんです。一塁まで走ってベンチに戻るとき「おやじ、俺のことみんなと同じようにしばいてくれるんかな」ってものすごく不安になった。そうしたら「何しとんじゃ、クソバカ!」ってポーンて。ものすごく痛かったけど、ものすごくうれしかった。初めて箕島の一員になれた感覚でした。

親子鷹は甲子園には飛べなかった。それでも高校3年間で、強は父から多くのものを吸収した。自分を犠牲にしてチームに尽くすバントの心、人としての器量、そして心の美しさだった。90年7月に兵庫県内の高校で女子高生が校門に挟まれて死亡する事件が起きたとき、テレビの前でニュースを見ながら父は泣いた。

 遅刻した生徒が校門に走り込んで、閉まりかけた門に頭をはさまれて亡くなったことに本気で泣いていたんです。「遅刻はあかんことやけど、学校に行こうとしている子供を何で閉め出すねん!?」って。ものの考え方を含めて、すごいなと思うことがありました。尾藤公が、高校野球に携わって今の時代に何を感じて、何をどう伝えていくか、どう生きたかをあと10年くらいは見たかった気持ちはすごくあります。

幼いころ、正方形の小さな皿が家にあった。「強へ」と書かれた皿には「強く、正しく、たくましく」の言葉が続いていた。

 結局、父はそういう生き方をしたんだと思います。強いだけじゃあかん、厳しいだけじゃあかん、優しいだけでもあかんよって口癖のように言ってましたから。

強にとっても、高校野球にとっても、尾藤公は唯一無二のおやじだった。(敬称略=おわり)【堀まどか】

(2018年1月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)