79、80年(昭54、55)当時、監督の竹田利秋が率いる東北は、4季連続で甲子園に出場した。その中心が左腕エースの中条善伸だったが、このチームは別名「スター軍団」と呼ばれた。中条(元巨人ほか)に加え、4番・一塁手安部理(元西武ほか)、三塁手佐藤洋(元巨人)と後にプロ入りする選手が3人。さらに「大会NO・1捕手」と評された石川裕治ら、チーム構成上の“勘所”が旧チームから多く残っていた。

能力が高い分、竹田はさらに高いスキルを彼らに求めた。主力の1人、佐藤は言う。「部員を100人も束ねるのにスキがないんです。見てないからサボろうという発想はなかった。サングラスを着けた時もフレームの縁から視線が合った」。

東北が甲子園常連になる過程で、その土台となった猛練習ぶりはつとに有名だった。意に沿わぬプレーがあると、グラウンド中に響く怒声一発。取材する側もすくむ? 迫力だった。「練習、厳しかったですよね」と振ると、竹田は首を左右に振り「本当は、気弱な人間なんですよ」。苦笑はすぐに消え、居ずまいをただした。「いい素質を持った選手がいたとしましょう。本人が努力もせずに、その素質を埋もらせてしまったら“それをくれた親に申し訳ないと思わないか!”と叱ります。その人間のことを思うからこそ、なのです」。主力クラスが見せしめとして、よく怒られた。

この時期から竹田の指導には少し変化が生じる。「選手を、伸びる“軌道”に乗せる手伝いをする、それがわたしの役目だと考えた。選手が伸びる雰囲気をつくれば、勝つチームにつながる」。個々のやる気を引き出すため、自主的に考えた練習に取り組ませた。「佐治さん(敬三氏=元サントリー会長)じゃないけど、“やってみなはれ”です」。

中条を「伸びる軌道」に乗せるため、竹田は「スピードボールにこだわるな」とだけ指示した。制球力向上のため、中条はドロップ気味に曲がり落ちるカーブの威力が半減しても投球フォームを上手から、サイドスローに変えた。邪念を振り払うため自発的に部室や便所掃除にも取り組んだ。

「今度自信をなくしたら、彼の人生は終わってしまう。だから石橋をたたいた」と慎重居士を決め込んだ竹田は、確信が持てるまで中条を先発で使わなかった。そのかたわら、試合になると「お守り」代わりの、四角い、小さな赤い布きれを背番号「1」の裏に縫い付けさせた。

最後の夏の県大会、竹田の思いをくんだ中条は元の上手投げに戻し、決勝まで5試合37回2/3を、奪三振42、四球4、自責点1の防御率0・24と投げ抜いた。竹田は試合後のインタビューで「(中条は)ご覧のように立ち直っています。何とか甲子園で1勝させてやりたいんです!」と声を張り上げていた。

甲子園での初戦の相手は瓊浦(長崎)。竹田は捕手の石川に「打たれても真ん中に構えて、真っすぐだけ投げさせろ」とだけ指示した。1回裏の1球目。打者が強振してバックネットへのファウルになった。「ストライクが1つ取れて、楽になりました」は、苦しんできた中条の本音だった。3球三振、それが3者連続となって称賛と激励の拍手が球場内を支配した。ベンチに戻る中条は、竹田の満面の笑みを初めて目にする。6回まで完全ペース。終われば13奪三振、何より無四球での甲子園初勝利だった。中条は、続く優勝候補の習志野(千葉)戦でも連続完封(2四死球)を達成して「1勝目は竹田監督、両親や同僚への恩返し。2勝目は自分の実力を証明するため」と話した。

竹田の心に、自然と染み入る言葉があった。「指導法に“終着駅”はない」。(敬称略=つづく)【玉置肇】

(2018年2月8日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)