竹田利秋は、東北、仙台育英の27年間の監督生活で春夏27回の甲子園出場を果たした。単純計算でも1年に1度は春夏どちらかに出場したことになる。「最低限、選手の夢の実現への手伝いはできたと思います。この“出場率”はちょっと誇れるかな」。

この27回のなかに「優勝」と「悔い」がないまぜになった試合が、1つある。

仙台育英時代の89年(平元)夏の大会。エース大越基(元ダイエー)を擁し、帝京(東東京)との決勝まで進出。大越と吉岡雄二(元近鉄ほか)の息詰まる投手戦は0-0のまま延長10回まで及び、4日連投に悲鳴を上げた大越の右腕は、ついに力尽きた。大旗の「白河の関越え」に、竹田が最も近づいた瞬間だった。「大越は最高の投球をしてくれたんだけどね。わたしが采配からいろんなミスをした」と、竹田は言った。

大越を山口・下関に訪ねた。早鞆で保健体育教諭と野球部監督を務める。開口一番「実は“竹田監督の東北”が、好きでした。東北の校歌なら今も歌えますよ。縦じまユニにも憧れた」。竹田に導かれるように仙台育英に進んだ。「悩みや、ミーティングで“違う”と思ったことは先生に言いに行った」。近づき難かった監督室のドアを何度もノックした。

竹田は言う。「彼は手がかからない、好きな選手でした。おとこ気があってね。こっちから言わなくてもやることはわかってた」。おとこ気を指す思い出がある。88年(昭63)センバツ決勝、東邦(愛知)-宇和島東(愛媛)をチーム全員が甲子園スタンドで観戦した。竹田は、前に座るエースにつぶやいた。「なあ大越、1度でいいからここ(決勝)で采配を振らせてくれよ…」。

それから1年4カ月後。帝京戦に先駆けた尽誠学園(香川)との準決勝。大越がおかしい。9回裏、勝利まであと1人。力みが明らかだった。ここで「逆球」失点で延長戦。勝ち越した延長10回裏、簡単に二塁打を許し、今度はけん制悪送球の凡ミス…。苦戦したのも、つぶやきの履行への思いならでは、だった。「耳に残ってました。絶対勝つとガツガツいきすぎた」。

再び、話を帝京戦に戻そう。竹田の、今なおうずく「後悔」もまた、その試合に刻まれていた。0-0の9回裏、仙台育英は2死三塁のサヨナラ機をつかんだ。打席に2年の遊撃手、茂木武。それまで吉岡の球威に力負けしている。竹田は「打て」のサインこそ出したが、それ以上のケアはしていない。「もう、27メートル先からホームインしたら優勝、なんですよ。吉岡君の投球と茂木の打力では、差がありました。それでも、あそこはひと声掛けてやらないといけなかった。わたしはヒットを待つのではなく、ヒットを打たせるべきでした…」。

茂木に聞いた。「あそこは代打かも、と思った。その時点でもう負けですよね」。詰まらされた飛球は、一塁まで飛ぶのがやっとだった。

後に竹田が、このシーンにいかにこだわったかを示す一戦がある。翌90年、夏の宮城県大会決勝(対東陵)。1-3から7回裏、同点としてなおも2死三塁。3年になった茂木に打順が回った。すると迷わず茂木をベンチに呼び寄せ、満員のスタンドを見回させた。何を言われたか、茂木に聞いた。「“こんな大勢のお客さんの前で野球ができるんだ。幸せだろ!”と言われました。そんなこと言われたことなくて、涙がボロボロ出てきた」。目の覚めるような快音を発して、決勝打は中前に抜けた。

当の竹田は何と言ったか、覚えていない。それより、何も言わなかったほうに自責の念を募らせていた。「負けた試合の方が記憶にある。あの采配はへたくそだった、ほかの戦い方もあった。その連続です」。

失敗、反省、後悔、分析…。竹田の敗戦には、次の試合につながる戦法が詰め込まれていった。

(敬称略=つづく)【玉置肇】

(2018年2月10日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)