ホームランには、夢がある。全国高校野球選手権大会100周年企画「未来へ」の最終回は、球児たちの本塁打の変遷に迫る。金属バットが初めて導入された74年、飛距離は格段に伸び、高校野球が変わった。本塁打数が増加傾向にあった92年には、甲子園のラッキーゾーンが撤廃。一時は本塁打数が激減したが、再び増加に転じた。歴代のスラッガーたちは、環境の変化とともに、成長を続けた歴史がある。(敬称略)【前編】 

 金属バットが導入された74年夏、東海大相模(神奈川)原辰徳は1年生だった。木製バットは芯で捉えないと打球が飛ばなかったが、「金属だと芯の部分が広くなるし、手も痛くないな、という印象だった。あと、手入れが楽になりましたね。木製は雨が降ると水を吸ってしまうし、水でゴシゴシ洗えない。金属は風呂場とかで、ジャブジャブ洗える」と懐かしむ。

75年、金属バットで打つ東海大相模・原辰徳
75年、金属バットで打つ東海大相模・原辰徳

 東海大相模では、練習では1キロの竹バットを振り込んでスイングスピードを上げ、試合になると軽い金属バットに持ち替えた。まだ性能は悪く、930~950グラムと現在より重いものだったが、打球の速さは格段に変わった。原の記憶に鮮明に残るのは、甲子園に行く前の、同校グラウンドでの出来事だった。

 原 俺が左中間にライナー性のホームランを打ったんだけど、打球を追った外野手がフェンスに顔から激突したんだ。当時のフェンスはコンクリート。歯が全部折れて、顔の形も変わってしまった。おやじ(原貢監督=享年78)は「金属バットになって、こういうライナーでホームランを打つ打者も増える。こういう事故が増えるだろう」と言って、翌日からラバーフェンスに変えることを決めたんだ。

 野球を変え、球場を変えるほど、金属バットのインパクトは絶大だった。甲子園に初めて導入された74年夏は計11本塁打。当時はまだ金属バットが登場したばかりで、使用した選手は全体の約6割ほど。木製を使い続ける選手もいた。

 そんな1人が、優勝した銚子商(千葉)の4番篠塚和典(当時利夫)だった。

 篠塚 プロに行くことを意識していたから。自分の打撃はガツンというタイプじゃない。力のあるバッターじゃないから、木のしなりを使いながらバットにボールを乗せる感覚というかね。そういう打撃が金属では全く出来なかったから。

 大会で2本塁打を放ったが、いずれも木製のバットだった。もちろん、これは少数派。折れることがなく、経済的負担が少ない金属バットはすぐに浸透する。PL学園(大阪)桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」が2年生で準優勝した84年夏は計47本塁打、優勝した85年夏は計46本塁打が飛び出した。清原の甲子園通算13本塁打は、今も個人最多記録に残る。【前田祐輔】(つづく) 

74年、金属バット解禁の年に、木製バットを使用する銚子商・篠塚和典
74年、金属バット解禁の年に、木製バットを使用する銚子商・篠塚和典

 ◆金属バット採用後の本塁打数 夏の甲子園で金属バットが採用された74年以降、本塁打の1試合平均本数は73年までの0・2本から3倍の0・6本にペースアップした。特に最近10年(05~14年)は488試合で382本が飛び出し、平均0・8本と増加傾向。06年(49試合60本)と12年(48試合56本)は試合数を上回る本数が出ている。

夏の甲子園での年別本塁打
夏の甲子園での年別本塁打
金属バット採用前後の本塁打数
金属バット採用前後の本塁打数