増渕竜義さん(30)が、バッターボックスに入った。埼玉・上尾市の「上尾ベースボールアカデミー」で、小学生を指導している時だった。

 子どもたちが打撃練習をする中、バットを持ってマシンに向かった。技術指導が始まるのかと思ったら、少しばかり違った。

 増渕さんは「まずはラミレス」と言って、DeNAラミレス監督のフォームをマネした。そっくりだったので私は吹き出してしまったが、小学生にはピンときていないようだった。

 「次はバレンティン」。豪快にボールを打ち返すと、子どもたちから「似てる!」と歓声が上がった。

 さらに「山田哲人」と、左足を高々と上げて快打を放った。みんな大喜びだった。


 増渕さん(以下、敬称略) 自由な感じでしょう。うちは「エンジョイ」なんで。厳しい練習もしないし、怒ることもありません。怒るとしたら、危険防止の時だけですね。とにかく楽しんでやってもらいたいと考えています。


上尾ベースボールアカデミーで指導する増渕さん
上尾ベースボールアカデミーで指導する増渕さん

 取材に行った日は、いわゆる授業のように全員に説明する指導はしていなかった。ただ、打撃の順番を待つ選手に近寄っていき、身ぶりを加えながら会話を交わしていた。


 増渕 最初楽しくやっていれば、そのうち野球に熱が入ってきます。そうしたら試合でうまくいかないとか、挫折も経験するでしょう。そのとき、選手自身が「もっとうまくなりたい」と思う。そう思うようにならないと、いくら一方的に教えても入っていきませんから。ボク、あまり教えないですよ。野球塾なんで、本当は教えた方が見栄えはいいんですけどね。


 引退翌年の2016年に「King Effect」という会社を設立し、野球教室や個人レッスンを始めた。昨年4月に「SAITAMA GO EVERY BASEBALL」という会社と共同事業という形で、上尾ベースボールアカデミーを発足させた。増渕さんは、ここで塾長を務めている(ホームページはhttps://www.go-every.com/)。


 増渕 今でも、こうやって野球に携われて幸せですよ。やっぱり野球が好きですから。


 27歳と若くして引退した。その決断があったからこそ、今でも野球を好きでいられる。当時は「野球を嫌いになりそうだった」という。


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 増渕さんは埼玉・草加栄中学時代から快速右腕として名高かった。県内の強豪私立高校から、数多くの勧誘を受けた。だが、県立の鷲宮高校を選んだ。


 増渕 私学は全国からいい選手を集めて甲子園に行きます。ボクの中では、ちょっと違うかなという思いがありました。埼玉の選手が集まる公立に行って、私学を倒して甲子園に行きたい。そういう思いで鷲宮を見学に行きました。そうしたら、すごく活気があって全員が同じ方向を目指して頑張っている雰囲気があった。すぐに心が決まりました。


06年埼玉大会で熊谷を無失点に抑えた鷲宮・増渕竜義投手
06年埼玉大会で熊谷を無失点に抑えた鷲宮・増渕竜義投手

 当時の高野和樹監督から指導を受け、増渕さんはプロからも注目される投手に成長した。

 3年夏の埼玉大会では5回戦の市浦和戦でノーヒットノーランの快挙も達成した。15三振を奪い、許した走者は死球の1人だけだった。準々決勝で春日部共栄、準決勝で聖望学園と強豪私立を倒し、決勝に進出した。

 だが、決勝戦は浦和学院に0-4で敗れ、甲子園には一歩及ばなかった。


 増渕 悔しかったですね。決勝まで行くのは大変なことだし、周囲も盛り上がって応援してくれました。でも、甲子園に行けないという意味では1回戦負けと同じ。あと一歩が足りず、本当に悔しかった覚えがあります。


 甲子園を目指して奮闘する中で、プロのスカウトに注目されていることは気付いていた。


 増渕 もちろん接触はありませんが、「スーツ姿の人が見に来ているな」とは思っていました。3年生になった頃には、指名してもらえるという思いは持っていました。


 06年のドラフトは高校生と、大学・社会人に分離されていた。高校生ドラフトは豊作の年だった。甲子園優勝投手の早実・斎藤佑樹投手は早大進学を表明したが、注目選手は多かった。各球団の1巡目を紹介しよう。


 ◆横浜(現DeNA) 北篤投手(小松工)

 ◆広島 前田健太投手(PL学園)

 ◆巨人 坂本勇人内野手(光星学院=現・八戸学院光星)

 ◆ヤクルト 増渕竜義投手(鷲宮)

 ◆阪神 野原将志内野手(長崎日大)

 ◆中日 堂上直倫内野手(愛工大名電)

 ◆楽天 田中将大投手(駒大苫小牧)

 ◆オリックス 延江大輔投手(瀬戸内)

 ◆ロッテ 大嶺祐太投手(八重山商工)

 ◆ソフトバンク 福田秀平内野手(多摩大聖ケ丘)

 ◆西武 木村文和投手(埼玉栄)

 ◆日本ハム 吉川光夫投手(広陵)


 田中投手は横浜、楽天、オリックス、日本ハムが競合した。堂上内野手は巨人、阪神、中日。大嶺投手はロッテ、ソフトバンク。そして増渕さんは、ヤクルトと西武が競合し、抽選によって交渉権の行方が決まった。

 当時、増渕さんの母がヤクルトレディだった縁も話題になった。


ブルペンで投球練習を終えた増渕竜義に(右)に古田敦也兼任監督が声をかける(2007年2月撮影)
ブルペンで投球練習を終えた増渕竜義に(右)に古田敦也兼任監督が声をかける(2007年2月撮影)

 増渕 1年目から1軍キャンプに呼んでもらえました。なめていたわけじゃないけど、プロでもやれるかなとは思っていました。


 最初に驚いたのはストライクゾーンの狭さだった。


 増渕 キャンプのブルペンで審判の方がジャッジしてくれますが、なかなかストライクを取ってもらえない。ボール1個から1個半は狭かったかな。ビックリしました。


 戸惑う中、心の支えになったのは高校時代の恩師、高野監督の言葉だった。


 増渕 高校時代、いつも「うまくいかない時を大切に生きなさい」と言われていました。うまくいかない時にふてくされたり、投げ出すのではなく、一つ一つ克服するために自分を見つめ直して努力を重ねる。そう教えられてきたから、前向きに臨みました。


 投手コーチから、ストライクゾーンを9分割ではなく4分割に分けて投げるよう助言された。内角高め、低め。外角高め、低めの4つに分ければいいと。


 増渕 最悪は2分割でもいいと言われました。低いレベルだけど、これで気持ちが楽になりました。コントロールばかり気にすると、腕の振りが鈍くなる。しっかり腕を振れないと、結局はコントロールもつきませんから。


 4月7日の広島戦に先発でデビューし、7回を4安打1失点に抑えた。勝ち星こそ逃したものの、堂々の投球だった。もし味方の援護があれば、楽天田中投手よりも早いプロ初勝利になるところだった。

 しかし、初勝利までは時間がかかった。10月4日の横浜戦で7回を6安打無失点に抑え、5試合目の登板で1勝目を手にした。ルーキーイヤーは1勝1敗、防御率4・30に終わった。


 増渕 開幕からローテーションに入れてもらいながら、1勝しかできなかった。ふがいない思いがありました。


 田中投手は11勝7敗で新人王を獲得した。


 増渕 この年に限らずマー君やマエケンには刺激をもらったけど、周りどうこうじゃなくて自分だと思っていました。1年目は体力もないし、考え方もまだまだと思いました。


 考え方とは?


 増渕 配球、1球の大切さですね。なぜ、ここでそのボールなのか。そういう意識がなかった。2ストライクに追い込んでから甘い球を投げて打たれてしまったり。そういうところを反省しました。


笑顔で話す増渕さん
笑顔で話す増渕さん

 2年目は3勝3敗に終わった。3年目は開幕前にアクシデントに見舞われた。戸田グラウンドで練習している際、打撃練習中の打球があごに当たった。あごの骨が2カ所も折れる重症だった。


 増渕 今でもボルトが2つ入っています。1カ月ぐらい入院して、何も食べられないから11キロやせました。筋力も落ちて体力を取り戻すのに時間がかかりました。


 この09年は未勝利に終わるも、10年はリリーフで57試合に登板した。翌11年は先発に回り7勝を挙げた。クライマックス・シリーズにも出場し、チームに貢献できている実感があった。

 翌12年は先発、リリーフにフル回転して49試合に登板した。


 増渕 試合で投げさせてもらうだけでうれしかった。与えられた仕事をまっとうしよう。それだけ考えて投げていました。


 プロとして軌道に乗り始めた。そんな矢先だった。

 増渕さんの野球人生を変えてしまう日がやってくる。2012年10月7日。広島24回戦(神宮)だった。(つづく)【飯島智則】