「浪速の春団治」は盗塁王だった? 編集委員・高原寿夫が送る木曜のオフ企画「こんなん知ってますか!?」、今週は阪神OB会長・川藤幸三の「意外な事実」に迫ります。2軍で走りまくった若き時代、川藤には思わぬ事態が起こっていました-。

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昨季のウエスタン・リーグ、矢野燿大率いる阪神のファーム軍団は走りまくった。実に163盗塁をマーク。これは同リーグの新記録だ。それを川藤はどんな思いで見ていたのか。「ワシらの頃とはいろいろなことが違うからな」。そう話す川藤には必死の思いで走りまくった若い頃の記憶がある。

川藤は69年、ウエスタン・リーグで走りまくり、30盗塁を記録した。しかし頭部へ死球を受けた影響で、46試合の出場にとどまる。当時は60試合制。残り試合を休んでも川藤の30盗塁はトップだった。しかし表彰されることはなかった。同リーグに最多盗塁の規定がなかったからだ。

川藤 イースタン・リーグにはあったんやで。「おかしいやないですか」って球団の人に言って。それで翌年の70年からウエスタンにもその部門ができたんや。

イチローがオリックス時代の94年(平6)、当時の最多安打である210安打を放ったことで「最多安打」が連盟表彰されるようになったことは知る人ぞ知る話。それと比べると照れくさい? が川藤にもイチローに肩を並べる経験があるということだ。

川藤は67年のドラフト9位で福井・若狭高から入団。経歴は内野手→外野手となっているが実は投手としてのプロ入りだった。しかし担当スカウトから「投げたらあかんな。通用しないことがバレる」と言われていたという。野手として評価していることを伝えるいかにも当時の話らしいが結局、内野からスタート。だが経験も自信もなかった。

川藤 足だけは負けんとこうと思ってたんや。走るのはそこそこやったからな。高校時代に靴を履かず、はだしで走って100メートル14秒4。阪神に入ってからのベースランニングは13・8秒やったかな。なんとか、それで1軍に呼んでもらおうと思ってたな。(69年5月22日の)広島戦では初回に出塁して二盗、三盗、本盗までしたんや。

現在の野球とは違う。投手、特に2軍ではほとんどクイックモーションを見ることはなかったという。盗塁そのものが重要な意味を持つことはなく、その気になれば狙える状況だったということか。

川藤 特に当時の阪神は1軍にも走る選手がいなかったからな。「阪神相撲部屋」とか言われてたんやから。どこかで聞いたことあるやろ。

そんな気持ちで上がった1軍で最初は守備走塁要員、そして代打要員。結局、レギュラーになれないまま現役を終えた川藤だった。しかしその存在感は光り、現在も阪神OB会長を務めている。「浪速の春団治」のスタートは不運の快足だった。(敬称略)【編集委員・高原寿夫】

川藤幸三阪神OB会長
川藤幸三阪神OB会長