今年で36年目に入る記者生活でほんの少しだけ誇らしく思っていることがあります。それは自分の書いたものが教科書に掲載されてきたことです。日米球界のレジェンド・イチロー氏について書いた本の一部が長年にわたって道徳の教科書に紹介されています。それが「本年度で終了します」と連絡をもらったのは昨年。そこにはちょっと意外? な理由があったのです。

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「東京書籍」(東京都北区)が発行している「新しい道徳」という教科書。そこに、こちらが2000年(平12)に書いた「イチロー 努力の天才バッター」(旺文社)から一部が抜粋され、掲載されています。最初が2004年(平16)だったようで丸20年が過ぎました、掲載内容はどんなものか。少しだけ紹介させてもらいます。

イチロー氏が彗星(すいせい)のように世に出た94年。ちょうど30年前です。年間210安打の新記録(当時)をマークしたイチロー氏ですが、もう1つ、大きな記録を達成する可能性がありました。

それは「年間最高打率」の更新。当時も、現在も日本プロ野球の年間最高打率は86年に阪神バースが打ち立てた「3割8分9厘」です。94年、イチロー氏はそれを超えるチャンスがありました。シーズン規定打席に達した時点で、打率はバースのそれを上回っていたのです。

すでに西武の優勝が決まり、オリックスにとっては残りは消化試合。イチロー氏が記録更新を優先して欠場してもプロ野球的には何もおかしくない。当時、本人にそこを聞くと「なんでそんなことをしないといけないんですか」と、一笑に付したものです。

レギュラー1年目ということもあり、フル出場への思いが強かったのもあるでしょう。その言葉通り、最後まで試合で出た結果、残り試合で少しだけ打率を落とし、3割8分5厘でフィニッシュ。これは歴代3位です。

このエピソードに「いつも全力で」というタイトルをつけ、道徳の教科書で取り上げているわけです。結果だけにとらわれず最後まで全力を出したすがすがしさに学ぶものかなと思いましたが、授業では「あなたがイチローさんの立場ならどうしたでしょう?」などと、子どもたちに考えさせるスタイルを取ることもあると聞きました。

それが終了するそう。そこには何があるのか。イチロー氏のモットーは「継続は力なり」ですが、得にならないことを最後まで愚直に続けるのを美化するのは時代に合わないのか。そんなことも予想しました。そこで同社の担当者に話を聞きました。そこでちょっと驚いてしまったのです。

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結論から言えば「そもそも野球を理解していない人が多くなった」というのです。このエピソードで重要な「規定打席」はおろか「打率」「首位打者」という単語も知らないし、分からない。さらには子どもたちだけではなく、教える側の先生たちもそういった野球用語を理解していない人が少なくないという現実があるといいます。

「エピソードについて考える以前に、説明しなければならないことが多すぎて指導まで届かない。もちろん野球を好きな子どもはよく分かるんですけど、知らない子どもはまったく分からないんです」。自身も野球好きという担当者は残念そうに話してくれました。

現在はスポーツも趣味もパーソナルな時代です。野球が子どもの、いや日本人の“共通語”だった時代は過ぎたのでしょう。それでも偉業を成し遂げた人物の話にまでそれが影響するのか、とあらためて考えさせれたのです。

もちろん「野球だけが特別と思うのはおかしい」という声はあるでしょう。それでもプロ野球や、高校野球に代表されるアマチュア野球が、戦後の日本人を熱くさせてきたのは間違いないと思います。正直「イチローでもあかんのか。寂しいな」という気持ちがしたものです。

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それでも野球の楽しさ、素晴らしさは変わりません。特に昨年は春のWBC優勝に加え、プロ野球12球団でもっとも人気の高い、その割に勝てない阪神タイガースが38年ぶり2度目の日本一に輝きました。そしてオフには大谷翔平、山本由伸が大リーグ・ドジャースと結んだ信じられないような巨額契約…と話題には事欠きませんでした。

何よりうれしかったのは、その大谷が全国の小学校に6万個のグラブを贈ったという話です。子どもたちが「野球を好きになりました」と話している姿を見て、こちらもうれしくなりました。

そして道徳の教科書から“消える”イチロー氏も独自の活動を続けています。オフになれば帰国し、高校球児の指導に出向き、女子野球と試合をします。

「プロ野球はほっといても注目されるでしょ。ボクは日の当たらないところに協力したい」。イチロー氏からは以前、そんな話をしていました。

野球だけが素晴らしいわけではありませんが、やはり、プロ野球選手は子どもたちのあこがれであり続けてほしい。

そして、その周辺にいる我々は勝ち負けだけではない野球の面白さ、関わる人たちの熱が伝わるエピソードを届けたい。野球を大事にしたい、血の通った人間がいることを伝えたい。ガラにもなく、年頭にそう思っています。

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謹賀新年。還暦になりましたが今年も阪神密着コラム「虎になれ!」やこの「ねごと」などで駄文を続けるつもりです。少しでも、みなさまの暇つぶしになれば、と願います。新しい年も、どうぞよろしくお願いいたします。【編集委員・高原寿夫】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「高原のねごと」)

イチロー(2001年7月撮影)
イチロー(2001年7月撮影)